タイトルおいたち
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1 誕生から小学校まで 2 中学校から大学まで
3 就職から2004CATV出演まで 4 愛・地球博から退職まで
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4 愛・地球博から現代まで

※平成17年9月10日 甥っ子達の最初で最後の「愛・地球博」

 2005年のビックイベントは、何と言っても地元愛知県で35年ぶりに開催された国際博覧会です。
 私自身は、オフクロとともに3度足を運びました。その記録は、既公表抜粋「愛・地球博を考える」で紹介しておりますので、そちらをご覧になって下さい。
 ここで紹介するのは、我が妹ファミリーの万博観覧についてです。
 夏休みを避けて、9月10日に見に行きたい。ついては、前日の宿泊とチケットの手配をして頂戴な!と頼まれたのはいつだったか忘れましたが、結果的に9月に観覧日を設定したのは失敗でしたね。同じように、夏休みを避けて観覧しようと考えて人が多かったため、9月を過ぎてからは、軒並み20万人を突破するような入場者数でした。
 で、私は、その1カ月前の8月10日。仕事を休んで、可愛い甥っ子達のために、インターネットで5人分の観覧予約を取ろうと、朝の9時前からパソコンの前に陣取っておりました。が、ご多分に漏れず、なかなかつながらない。ホントは是非日立館を取ってあげたかったのですが、結局、取れたのは、グローバルコモンのオレンジと、ワンダーサーカス電力館でした。この二つの館の予約時間をベースに、如何にしたら効率的に回れるかの作戦を検討し、綿密な計画書を作成しました。
 そして当日。渋る甥っ子達をたたき起こし、朝4時に家を出発。本来は、自家用車でゲート前に横付けはできないところですが、さすがにまだ、警備員もおらず、そこで一家5人を下ろしました。しかし、すでに道をはさんだ地下道入口まで人の列はつらなっており、一同唖然。
 私は、家にとってかえり、携帯電話とインターネットで混み具合状況を見ながら、一日中ファミリーに観覧順序の指示を与え続けました。 いいおじちゃんだ〜。
 彼らのゲートオープン時の順番は、3家族位の後だったそうで、早朝に車を飛ばしたのは大成功。そして、三菱未来館を皮切りに、ほぼ作戦どおりに観覧することができました。また、グローバルコモンでは、左にある読売地球新聞が、5人中、3人分当たったそうで、我が家へ帰ってきた時、子供達は未だ興奮冷めやらぬ感じで、その様子を話してくれました。
 実は、オジチャンのホームページに僕たちも是非乗せて欲しいと、甥っ子達からせがまれていましたので、これをここに掲載するものです。寝不足気味ながら、嬉しそうな子供達の顔をクリックして見てやって下さいませ。

※平成18年9月17日 リフォーム完了

 長年の懸案事項であった、我が家の水回り、キッチン、風呂、トイレの改良について、ついに平成18年、着手しました。
 2年ほど前から本を買ってきて色々勉強をしましたが、どこの会社に頼むかが一番の問題でした。それで、インターネット上のあるサイトを利用して3社に絞り込み、実際に家を見てもらい、こちらの希望に基づき、企画案を提出していただきました。その際、一番低価格の処に決めるという安易な決定はしませんよ。などと偉そうなことを言って、お願いをしましたが、いざ、決定しようとすると、なかなかこれが難しい。
 色々話をしているうちに、3社の内の1社が、ウチの職場の職員生協と提携をしており、なんと1割引になることが判明。
 しかし、それ以上に、我が家にいらした早瀬さんや担当の小澤さんの熱心さにほだされて、「ホームプランナー」という会社に決定しました。ずいぶんワガママなお願いをしたりしましたが、職人さん達も含め、実に熱心かつ誠実に工事を施工してくれました。
 その様子は、しばらくの間、「ホームプランナー」さんのHPで紹介されていました。
 リフォームは新築以上に大変だと聞いてはいましたが、ホントに大変でした。
 廊下の床を替えれば、さわる予定でなかった部屋のドアが気になります。そのドアを新しくすれば、その部屋の壁紙が気になります。壁紙を新しくすれば、今度はカーテンが気になります。という感じで際限がなくなってしまうんですね。それに、風呂が新しくなるまでは、2週間あまり、毎日、銭湯通いもしました。我が家から車で10分位の銭湯(450円でした)でしたが、この歳になって、オフクロと銭湯通いをするとは思いませんでした。勿論、たまには銭湯も良いものですが、毎日ともなれば、仕事帰りに一杯というわけにもいかず、ちょっと辛かったかな。
 そんなこんなで、やっと完成した我が家は、大変満足な出来映えでありまして、これでもう、私が生きている間に大きなリフォームは必要はないでしょう。それに、こんな大きな買い物をすることも、もうないでしょうね。この9月で寿退社された担当の小澤さんにとっても、最後の大仕事?になったみたいです。お疲れ様でございました。

※平成18年9月23日 海上の森 里山サテライト愛称募集で優秀賞受賞

 愛・地球博が終了し、海上の森にあった愛知県館等が、あいち海上の森センターとして生まれ変わりました。それに伴い、このメインのセンターとサテライト施設の愛称やシンボルマークが募集されました。
 しかし、なかなか思うように応募が集まらず、担当者が泣きついてきたこともあって、仕事中に考えて応募した名称が優秀賞に選ばれました。「森造木心庵」というのがそれ。
 作った本人は、「もりづくり ぼくしんあん」と読ませ、じ〜と見ると、「モリゾーキッコロあん」とも読めるという意図だったのですが、モリゾーキッコロに当て字を使うことはまかりならんと、博覧会協会からクレームがあったとか、なかったとか。。。というわけで、最優秀賞はおしくも逃しました。
 で、この日、海上の森センター、オープン式典において、1万円の図書カードと賞状をいただきました。この歳で、賞状を頂けるなんてね。もう、死ぬまでないかもしれませんね。それに、関連業務が主催する行事において、いつもは事務局かお手伝い要員となるところを、この日だけは、何てったって受賞者ですから、お客様として出席。ちょっと気分がよかったけど、少々申し訳なかったかな。
 左の写真は、記念植樹をおえて、モリゾーキッコロと緑の少年団との写真。勿論、このモリゾーキッコロの中は、ウチの職員が入ってます。
なお、賞品としてもらった図書カードの一万円分は、職場の飲み会貯金に寄附。考えてみると、いまの仕事の担当になってから原稿料も含め、あたしゃぁ、みんなの飲み分に、ずいぶん貢献してるぞ!

※平成18年11月8日 第16回春日井市地区赤十字大会で、感謝状を授与

 突然手紙がきて、赤十字から感謝状をくれるというではありませんか。平日ではありましたが、ちょうど仕事上の予定もないことから、有給をとって、のこのこ出かけました。
 送ってきた感謝状の引換券(引換券というのもヘンですが、そう書いてあったから仕方がない)の整理番号は、「感−542」。そうとうの数の感謝状がでるのかなぁと、思っていました。 で、当日行ってみると、献血の功労者と言うことで、30人程感謝状がでる集団の1人でした。会場では、近所に住むおばさんから声をかけられ、この人が赤十字に関するボランティアをやっているんだという新たな発見もあったりしました。献血回数は、現在58回。特に一生懸命やっているわけでなく、職場に献血車が回ってくる度にやっていたのですが、200ccから400ccへの切り替えがあった頃は、400を2回分とカウントしていた時期があって、それで多く記録されているのだと思います。
 感謝状と3千円分の図書カードを頂き、平成18年は、リフォームで大銭を使ったにもかかわらず、海上の森の名称と献血のおかげで小銭を稼ぐことができました。
 ただ、それよりもなによりも、この大会の式次第の中に、国歌斉唱というのがありまして、本当に久しぶりに君が代を歌いました。考えてみれば、色々な式典を職業柄企画したり、開催したり、手伝いに行ったりしていますが、今、国歌斉唱ってやりませんね。色々、訳のわからない議論をふっかける人がいて、難しいのでしょうかねえ。でも、やっぱ、良いもんですよ。このもとは万葉集からとられたという歌詞の国家を、みんなで斉唱するっていうのは。

※平成18年12月10日 24年間連れ添ったコロナとお別れ

 昭和58年に購入した愛車コロナがとうとう動かなくなってしまいました。
 なんでも、今の車は電子部品が数多く使用されていて、今後、現在故障したバキュームセンサーとかいう部品を特注生産(当然、現在は製造していないとのこと)して取り替えたとしても、次に又すぐ、他の部品を取り替える必要が生じる可能性があると、診断されてしまいました。ちょうど、この12月が車検月ということもあって、思い切ってお別れすることにしました。
 新しい車については、「もちもの」のコーナーで紹介していますが、古いコロナは、やはり24年間つき合った車ですから、別れは辛かったです。土地さえあれば、ナンバーを外してどこかに置いておきたいんですけどね。
 色々な想い出、○○さんを乗せて走った初めてのドライブとか。。。仕方ないですね。でもやっぱり、寂しいなぁ。

※平成23年3月31日 A県を依願退職

 かねてからの計画通り、定年を待たずして、A県を退職いたしました。形の上では、勧奨退職というスタイルになっています。
 早期退職について、正式に幹部の方々に伝えたのは、万博の年。その時は、2010年3月に退職する予定ですと話をしました。

 これまで、結構過酷な職場を渡り歩き、毎晩仕事で午前様、土日にマイカーで現場にでかけるなとどいう年もありました。おかげで家庭を持つことさえできませんでしたが、顧みる家庭がなかったからこそ、完成した仕事もなかったわけではありません。そのかわり、オフクロには苦労をかけましたが。。。。自宅の庭に咲く花にも気づかず、よく叱られたものです。

 そんなわけで、最後の1年を、これまでの行政とはことなった職場ですごさせてやろうという、幹部の方々の暖かい配慮でしょうか、植木センターという研修や調査・研究、そして樹木の展示を行っている施設を管理する職場に異動しました。
 そして、その職場が、メンバー、仕事の内容等、すべてがすばらしく、今までとくらべると、まさにパラダイスのようなところでした。そんなわけで、結局退職を1年のばし、2年間お世話になってしまいました。

 そのすばらしいお仲間が、この方々です。

           

 このセンターは、県とは異なった機関で運営管理をしているのですが、ちょうど平成22年度をもって、県からの出向職員は一斉に引き上げと言うことになり、私以外の県職員も、植木センターから去ることになりました。
 その節目となる年の梅まつりでは、エレクトーンを存分に弾かせてもらいましたし(その模様は、大平サロンコンサート参照)、ここでの生活は、一生の思い出となるでしょう。

 最後をこのようなすばらしい職場で終えることができ、本当に幸せ者だと思います。ありがとうございました。
 で、4月以降、悠々自適、晴耕雨読のつもりだったのですが、ある人からお礼奉公せよと仰せつかり、1年間、某所で滅私奉公をすることになりました。ま、ちょっと付け足しの1年となりますが、あくまでもこの3月が一区切りと言うことでございます。

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