タイトルおいたち

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1 誕生から小学校まで 2 中学校から大学まで
3 就職から2004CATV出演まで 4 愛・地球博から退職まで
 5 Stage2へ 

1 誕生から小学校まで

  ※昭和34年2月28日生誕

 A県N市において、地元の建設会社に勤める親父と小学校で教鞭をとっていたお袋の長男として、誕生いたしました。
 体重3,000グラム、身長50p。血液型O型。干支はイノシシ。星座は魚座です。
 ちなみに、2月28日は、千利休の命日です。私のお茶好きは、そのせいかもしれません。

 生まれたばかりの頃の私です。  満2歳の頃の私です。
空白

 テレビ塔へ行ったときの写真です。
 小さい頃は、登るのを「難しいからイヤ」と大変怖がったそうです。

 写っている車がなんともはや、レトロチック。

 この頃の写真を見ると、ホント、純真そうに見えるよね。

  ※昭和38年4月幼稚園に入園

 N市にある私立S幼稚園へ入園。ただし、この年の4月15日に妹が誕生しているので、入園式には行かなかったとか。
 幼稚園時代の私は、とても、ドジな園児だったようです。早生まれで、生来不器用なためでしょう。だから、かえって、先生達にはかわいがられたのかも知れません。

 お昼寝の時間には、しばしば本気で、帰る時間まで寝入ってしまっていたとか(このころから、「ねむり姫」だったのかも…)、知能テストの時、先生の持っているストップウォッチが物珍しく、そればかり気にしていて解答を記入しなかったので、とんでもないIQ値だったとか、いろんなエピソードを聞きます。勿論、私自身は、あんまり記憶がないのです。
 「大きくなったらパイロットになりたいなぁ。」と、お誕生日カードには将来の夢が書いてありました。

 今、年賀状を出し合っている方で、一番古くから続いているのは、この幼稚園の年長組の先生です。

 この頃、ヤマハ音楽教室に通い出しました。その教室は、通っている幼稚園で開設されてました。
 家にはオルガンしかありませんでしたが、ちょうどこの時期に、販売が開始されたエレクトーンばかり教室で弾いていたとのことです。当初は、沢山いた仲間も卒業まで続いたのは、ほんのわずかだったと聞いています。このようなものを続けるのは、本人より親の方が大変ですもんね。
 そうそう、この頃、お袋は、すでに教職を退き、子育てに専念しておりました。親父は、全国各地の橋梁建設現場へ、長期出張が多く、家を留守にすることが多かったと聞いています。

 そんな思い出がある幼稚園ですが、今はもう、廃園になってしまいました。

 幼稚園の運動場です。
 このようなモニュメントがあったことは、何となく記憶にあります。
 生まれたばかりの妹と、クリスマスパーティーです。
 この頃のケーキは、バタークリームでしたよね。

 

  ※昭和40年4月小学校へ入学

 N市立H小学校へ入学。
 昭和40年と言えば、「もはや戦後ではない。」と言われて久しい頃ですが、まだ、給食では脱脂粉乳が出たことを覚えています。
 良い先生、良い友達に恵まれ、ごくごく普通の小学生でした。残念なのは、卒業と同時に、引っ越してしまったので、その後、友達と交流がないことです。(一度、同窓会が催されましだが……)
 この頃は、大きくなったら小説家になりたいと思ってました。
 5年、6年の頃、N市科学館主催の友の会や星の会、日曜子供科学教室や、日曜子供野外教室なんかに、よく行ってました。
 美濃赤坂金生山で、リュック一杯、フズリナの化石を詰め込んで、帰ってきた覚えがあります。あの頃は、あんなものが、宝物に見えました。
 二年生の頃のお正月の写真です。画面の右手に写っているテレビが、なんとも懐かしいではありませんか。
 我が家では、私が中学生になるまで、白黒テレビでした。だから、ウルトラマンも巨人の星もモノクロ世界のヒーローでした。
 三年生の頃のエレクトーンの練習風景です。使っている機種は、B−3。当時、親父の月給の3倍したとのことです。よく、買ってくれたと思います。
 この頃は、四畳半と六畳の2DKのアパート暮らしでしたから、夜は、エレクトーンの下に頭をつっこんで寝ていました。 
 三年生の時の家族旅行です。この時期、親父とお袋は新居建設のため、切りつめた生活をしていましたが、年に一度の2泊3日の家族旅行は、妹の高校受験で中断するまで続きます。
 正直言って、私は、親父とお袋が、自分だけの娯楽を楽しんでいるのを見たことがありませんでした。常に、家族中心子供中心、そして、家を建てるんだという信念で、生活していたようです。
 昭和43年、四年生の頃、撮影されたものです。正面の1階が、我が家です。
 この年、私の名付け親だった母方のおじいちゃんが他界しました。実に様々な趣味を持つおじいちゃんで、もし、もっと長生きをしていたら、色々な事を教えてもらえたのにと残念でなりません。
 四年生からクラブ活動が始まり、鼓笛部に入部しました。写真は五年生の運動会の時の演奏です。大太鼓が私です。
 今なら、ビシッとユニフォームで決めるところでしょうが、当時はみんな貧乏だから……。
 よく、歩道橋の渡り初めに行ったのを覚えてます。大太鼓叩きながら階段登るのはしんどかったよ。
 昭和45年10月、新居の棟上げ式がありました。親戚や工事の人達の前で、蝶ネクタイ姿(当時流行だったとか)で、挨拶する親父の顔が、とても晴れやかだったことを、子供心に覚えています。
 お袋が抱いているのは、従姉妹です。
 六年生、修学旅行は、京都、奈良。これは二月堂の前で撮った写真です。
 この旅行の思い出は、我々のバスガイドさんが新人さんで、バスに酔ってしまい、ごめんなさいと泣きながら途中でバスを降りてしまったことです。どうしてるかな、今頃……。とっても可愛い人だった気がするけど。

2 中学校から大学まで

※昭和46年4月中学校へ入学

 K市立F中学校へ入学。
 この年の3月にK市にできた新居に引っ越しをしました。N市のペットタウンとして住宅公団が建設したニュータウンで、第二次募集だったとか。そのため、まだ、空き地の部分も多く、我々の格好の遊び場所でした。
 今でこそ、団地の中に高校までありますが、当時は、小学校が2校、中学校は1校しかありませんでした。それで、入学した当時、3年生1クラス、2年生2クラス、1年生が3クラスで、校長先生が、生徒の後ろ姿を見るだけで名前がわかるなんて話がありました。
 毎週木曜日、朝礼のかわりに、全校生徒でフォークダンスをするのが恒例行事となっていて、マイム・マイムやオクラホマミキサーを全校生徒一つの輪になって踊ってました。入学したばかりの頃、3年生のお姉さんと手をつなぐことができるのが、うれしいやら、はずかしいやらで……。純情でしたね。
 それと、汗っかきの私は、入学してすぐ、丸坊主にしました。もっとも5分刈りでしたから、ホントの坊主頭じゃないかもしれませんが、クラスでは勿論、全校生徒の中でも、2〜3人だったと思います。自分では、坊主頭に学帽というスタイルは結構気に入ってました。
 このスタイルは、高校の2年の終わりまで続きます。
 テニス部に在籍してました。今でもつきあいのある友人は、このクラブで一緒だった仲間です。真ん中の帽子をかぶっているのが、私です。
 この頃、天体写真をよく撮影していました。この望遠鏡は、結果的におじいちゃんの遺産として買ってもらったみたいなものですが、当時も今も値段はあまり変わらないみたいです。いや、今のが安いかな?。
 その口径80mmの屈折赤道儀も、今では倉庫に眠ったまま。時には、月でも覗いてみるかな。

 修学旅行は、東京、箱根、芦ノ湖でした。

 この写真は、東京国際空港でとったもの。
 一緒に写っている女性は、ガイドさんにあらず。我々の恩師小川先生であります。

 当時、学校を卒業したばかりで、可愛らしいけど、とってもパワフルな理科の先生でした。
 そうそう、板書の字が、結構、迫力あったことを覚えてます。

※昭和49年4月高等学校へ入学

 県立S高等学校へ入学。
 高校までは、当時、電車のスピードが遅かったのか、1時間30分かかりました。
 S高校は、それなりに歴史もあり、一応、進学校だったのですが、大学受験のための体制はほとんど、とられていませんでした。
 そのかわり、自由な校風で、文化祭、体育祭は、とても派手でした。
 2年生の時、文化祭で8ミリ映画をクラスで作りました。内容は、「寺内貫太郎一家」をパロったもので、寺内貫太郎を私が演じました。
 親父のステテコを履いて熱演?した覚えがあります。今ならビデオなんでしょうね。
 クラブは、地学部天文班に席を置いておりましたが、通学に時間がかかるし、ほとんどさぼってました。
 体育祭の時の綱引き風景です。S高校では、1年から3年まで縦割りで軍団を造り、それぞれ張りぼてのデコレーションを作ります。後ろの方に見えるのが、それです。高さ5メートル以上、軍団全員がその桟敷に座ることができるという、かなりデカイものです。体育祭が終わった日にファイヤーストームで前夜祭。そして、次の日から文化祭と学園祭は続くのでした。
 修学旅行は、広島、山口でした。この写真は、関門トンネル内の県境で撮影したモノです。

 当時、国鉄のストライキ全盛時代で、何度もその為に延期されました。とうとう、3学期の期末試験寸前の日に旅行となり、みんな単語帳を持って新幹線に乗りました。
 でも、誰もその単語帳を開くヤツはいませんでしたよ。

※昭和52年4月予備校K塾へ入塾

 現役時代、大学受験には失敗しました。親の意向は、大学へ行きたいなら、地元の国、公立、そして、浪人は1年まで、ということでした。志望校は、現役の時も、浪人の時も変わってません。理科系志望でというより、理科系科目の方が成績が良かったということもありませすが、親父の仕事(橋梁を造る土木系の会社)から土木部と、もう一つ農学部林学科を選んでました。
 林学を選んでいたのは、自然の中でボーとしているのが好きなのは勿論ですが、当時のN大学の学部紹介のパンフに、「演習林で実施される通算一ヶ月におよぶ実習は、林学科卒業生の一生の思い出となるでしょう。」なんていう、文句に惹かれた為であります。そして、林学なら最初から土木系の治山工学研究室に行きたいと思ってました。
 いずれにしろ、この浪人時代は、後の人間形成に多大な影響を与えました。勿論、勉強もホントによくしました。
 でも、それ以上に、精神的な面が大きいと思います。考えてみるとスネかじりの身とはいえ、挑戦することを辞めてしまうことだって可能だったにも関わらず、人生で初めてぶつかった壁に自分の意志で、立ち向かわねばならなかったわけです。それに、もし、あのままストレートに大学に入学していたら、世の中、なんとなく、自分のシナリオ通りになるんだなという、甘い考えのままだったかもしれません。
 予備校の授業はとてもパワフルで、そして、講義というモノは、こちらの聞こうという意志と講師の話そうという意志が高揚してぶつかり合ったとき、すごいパワーが出るんだなということにも気が付きました。そんな時は、講義が終わると自然と拍手が起こったモノです。大学でも、あのような緊張感あふれる講義はついぞ、体験できませんでした。
 珈琲の味を覚えたのもこの頃です。予備校の近くに小さいながらも、沢山の種類のストレート珈琲とバリエーションを備えた喫茶店が開店して、いつも、帰りに寄ってました。
 大学へ入学してから、この予備校で同じ化学の講師に師事した人と、会うことになります。その人の名だけは、講師からの合格お祝いの手紙で紹介されていました。後に同じ研究室に進むこととなり、時々、K塾の思い出話に花が咲きました。今でも、その人とは交流があります。
 この浪人時代も、まぎれもなく、私の一生に大きな影響を与えた青春の一ページでありました。


※昭和53年4月大学へ入学

 国立N大学農学部林学科へ入学。 
 土木の単科大学も受験しましたが、そっちは、2年連続で落ちました。でも、正直言いまして、私は、どの学部でもよいから、総合大学へ入学したかったのです。そして、大学に入ったら、そこから出るつもりはなかったのです。
 私の名前には「博」という字が使ってあり、名付け親のおじいちゃんがいうには、博士のようになれ、という願いが込められていたそうです。というわけで、漠然と、大学へ入れたら学者になるべきだろうと、思ってました。そして、全学部全学科の授業に顔を出したいなとも思っていたわけです。しかし、結局、両親の希望をのみ、4年間で学生生活は終止符を打ちました。
 ただ、単位数が足りても、余分に講義は選択してとってました。特に、教養部時代、歴史や経済、社会学や心理学の講義がとても好きでした。だから、成績は悪くとも、とった単位数は、人よりかなり多いと思います。
 火、木、土のクラブ活動。本も年間100冊位読み、映画も年間100本位見てました。浪人時代の反動だったのかもしれませんが、とてもバイト等やっている暇はありませんでした。
 研究室にはいってからは、ホントに素晴らしい教授陣、研究室仲間に恵まれ、この大学を選んで良かったと心から思ったモノです。
 しかし、当時も就職難の時代で、民間からの引き合いはまったくなく、学科の性格から公務員を目指す友人が沢山いました。
 公務員試験突破ゼミを自主的に造り、専門試験の問題を互いに作成し合っては、テストを実施してました。
 その友人達も、民間に就職した仲間を含め、今や全国で活躍しています。
 森林植物学実習の記念写真です。当時の林学科全員です。

 実は、この中に既に鬼籍に入った友人もいます。彼は卒業を待たずして旅立ってしまいました。山岳部のキャプテンまでやり、健康そのものだったのに、病に倒れました。残念でなりません。
 昭和55年12月21日N大学フォルクローレ同好会第6回定期演奏会の模様です。
 私の学生時代は、この同好会を抜きにしては語れません。

 勿論、この手の音楽を耳にしたことはこれまでにもありましたが、新入生歓迎コンサートの時、ケーナの音に魅了されて、入部しました。以来3年間、大学祭や定演で主にケーナを吹いてきました。

 この写真は、最後のステージとなった三年生の時のものです。
 我々のクラブでは、毎年、定演でやりたい曲の希望を出し合って、部内でグループを結成するのですが、この時は、たまたま、3年生中心のグループが一つできあがりました。それで、何か特別な演出をということで、我々のグループの男性陣は、春から髭を伸ばして定演に臨みました。
 これは、シークとかサンポーニャと呼ばれる楽器で、所謂パンフルートの一種です。
 ビール瓶を鳴らすのと、まったく同じ要領で演奏しますが、とても味のある音がします。
 さすがに最後の定演の打ち上げコンパでは、ちょっとセンチになりました。

 フォルクローレは私の学生時代の最大の思い出の一つです。
 この写真は、中学時代の友人3人と、突然、琵琶湖の方へ鮎を食べに行こうと話がまとまったときのものです。中学時代のテニス部仲間です。
 幼なじみ?の前では今でも格好のつけようがないですよね。
 卒業を間近に控えたN大学農学部林学科治山工学研究室の面々です。
 恩師片岡先生の後ろに立っているのが、予備校の同窓生であるK君。その前、前列一番右に座っているのが、1年から研究室まで一緒で、A県就職後、最初の赴任地で3年間一緒だったほとんど腐れ縁のM君。大阪府のY君に京都のS君。労働基準監督官になったM君と、実に個性派揃いでした。

3 A県就職 〜 2004CATV出演まで

※昭和57年4月A県就職

 就職する前は、公務員は給料は安いが、5時には帰れると聞かされてました。これは、半分当たっており、半分とんでもない間違いでした。正直言って、就職したばかりの頃、同級生と給料の話は、あまりに差がありすぎて恥ずかしくて話題にできませんでした。
 最初の赴任地は、地方機関であるS事務所林務課でした。自宅から通えない位置にあり、寮へ入れとの指示でしたが、その寮から電車で1時間以上かかりました。(途中から車通勤に変更)
 それでも、初めての一人暮らしということで、期待に胸を膨らませて赴任したのですが、この仕事が滅茶苦茶に忙しいモノでした。
 最初の4月1日から残業で、休日出勤など日常茶飯事。その事務所にいた3年間の内、ゴールデンウィークをまともに休んだことはなく、夏期休暇もまともに取得したことはありませんでした。若かったからあんな無理も利いたんでしょうね。でも、そのおかげで、これ以降、どんな職場に行っても、忙しさには免疫が出来ている気がします。
 ただ、重要なことは、忙しいから大変な仕事である、暇だから楽な仕事であるとは、言えないことですね。
 就職したばかりの頃、事務所で図面を書いている私です。
 当時は、治山担当をしており、治山工事の設計、施工、監督をしていました。
 タオルは、学生時代からの私のトレードマークです。
 昭和58年度のS事務所林務課治山担当ヒラ職員一同です。
 いくら忙しいと行っても、暇になる時もあります。若いメンバーが多く、ノリのいいチームだったので、仕事は忙しくとも、楽しい職場でした。
 これは、みんなで静岡県久能山へイチゴ狩りに行ったときの写真です。

※平成元年10月1日 妹結婚式
※平成2年4月3日 親父死去 享年65歳

 妹たちの結婚が既に決まりつつある時、親父の癌が見つかり、後1年位と診断されました。
 このため、彼らは急遽、式を挙げ、新婚旅行も国内となってしまいました。
 親父は、退職後、嘱託扱いで本四連絡架橋の一つ、大鳴門橋の安全衛生責任者をしばらくやってました。それを辞めて2年程しかたっていない頃です。大正13年生まれですから、ほとんど青春は国家に剥奪されたようなモノ。戦後は、とにかく生きるだけに精一杯だった時期もあったでしょう。このため、おそらく、本当は自分が何をしたいのか、何をすると満足するのかということさえ、考える暇がなかった人生だったと思います。
 職を離れ、ようやく、自分を発見しつつ、何をすべきかを方向付けた時期に、病床にあったことは、おそらく、自分自身が最も納得いかないことだったでしょう。親父の轍を、私は踏まないようにしなければなりません。
 今回、このホームページを作るに当たり、昔のフロッピーの中身を調べていたら、喪主としての挨拶原稿が出てきました。
 通夜の晩、急いで作った覚えがありますが、それをここに記載しておきます。
 「本日はお忙しいところ御会葬下さりありがとうございました。また、父の生前中は、皆様より格別のご厚情を頂き、まことにありがとうございました。
 大正13年生まれの父は、まさに激動の昭和の時代と共に生きてまいりました。終戦後復員してきてからは、日本全国、足を踏み入れたことのない都道府県は無いほど、各地に橋梁、橋を架けてきたと聞いております。日本の高度成長のために全国を駆け回り、その最後の現場が本四連絡架橋の一つである、あの大鳴門橋でありました。
 時代も平成と変わり、ようやくこれから自分自身の為の人生を生きていこうというときに、父も無念だったと思います。が、しかし、このように多くの方々にお見送りいただき、さぞ、感謝していることと思います。
 父亡き後、これからも、故人同様、変わらぬおつきあいと、ご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げ、ご挨拶にかえさせていただきます。どうもありがとうございました。」

※平成5年10月9日

 私が建設に関わった、T村のオートキャンプ場のオープニングパーティーの模様です。その他、T町の天文台建設にも関わりました。この頃は、景気対策という名目で予算が沢山つき、とても忙しかったけど、今から思えば懐かしい時代です。


 私の前で五平餅を持って仁王立ちしているのは、当時の上司であり、大学の先輩でもある「やっさん」です。
 なかなか厳しかったですが、人間として最も愛すべき、そして尊敬できる上司の一人でした。

※平成10年7月27日−平成11年1月23日 お袋さん、結核で長期入院

 この年は、春からお袋さんの体調が悪く、何度か、かかりつけ医院のF診療所で検査を受けました。当初は肺癌かとも思われてましたが、紆余曲折の末、結核と言うことが判明。結核となると隔離病棟のある所へ入院せねばなりません。
 家からだと瀬戸より尾張旭市のA労災病院の方が近いかな、ということで、そこへ紹介されて行ったのが7月24日。

 診察の結果、「結構りっぱな結核です。」とのこと。完治するには2〜3年はかかります。入院は少なくとも3ヶ月から6ヶ月で、場合によっては1年となります。でも今は病室が空いてないので、家で待機していて下さい。と言われました。正直言って、え〜そうなのぉ?というのが感想でした。私に感染する心配は無いのかなぁと思いつつも、ほぼフラフラ状態のオフクロを寝かせ、夕飯の支度をしていると夕方病院から電話があり、27日月曜日にいらっしゃいとのこと。ま、やれやれてすね。親戚や妹のところにも連絡を済ませました。

 そして、27日、指定された10時45分に病院へ到着。その時は2人部屋でした。(後に大部屋へ移動)
 私が様々な提出書類を作成する間、お袋さんは昼飯をペロッと食べました。私自身の検査もしなければならんと言うことで、住民票をとり、春日井保健所へ電話。え?あなた県職員なの?すぐいらっしゃいと言われて、私自身の検査を行ったところ、異常なしでありました。もし異常だったならば、私の働いている職場の同じ階の人すべてを検査することになるんだそうな。そして、お袋さんの平成7年のレントゲン写真はあるか(なぜ平成7年かは不明。日記の記録にはそうあります。)と聞かれ、F診療所に聞くと保管してあるとのことだったので、もらいに行って保健所へ提出しました。そんなわけで私が家に帰ってきたのは、夕方6時を過ぎていました。
 実は、7月28日火曜日は社会保険労務士の試験日、4回目の挑戦日でありました。オニギリ持って行きましたけど、もう眠くて眠くて、当然落ちましたわさ。

 結核の隔離病棟というのは、面白いモノで患者の皆さん、とても明るいのです。しかも長期入院の人ばかり。それでいて法定伝染病ですから入院費用は無料。当時は食事費の自己負担もありません。そして手術するわけでもなく、薬を飲んでのんびりしているだけなのです。
 今は良い薬があってよく効くようで、症状はすぐ改善します。ただ菌が外に出なくなって初めて退院となります。だから療養期間が長くなるのですね。
 入院患者さんの中には、アパートを引き払って病院に住んでいるような人や、喫茶店にお茶を飲みに行く人までいました。大丈夫かいな。そうそう病院の裏山のタヌキに餌を与えている人もいたなぁ。お袋さんもすぐ元気になってしまって、運動不足解消のため、同室のお婆さん達を引き連れて、病院中歩き回っておりました。
 当初は毎週お見舞いに来なくてもいい、なんて言っていたくせに、毎回、あれを持って来い、コレを持って来いと指示があり、果物が足りないとぼやくので、結局、毎週オレンジを搾ったジュースを持って通う羽目になりました。当然、私自身も他の患者さんと仲良くなりますよね。

 私自身の仕事の方はというと、財政難の中、全国植樹祭を誘致するか否かの瀬戸際で、財政当局と過酷なバトルを繰り返しているという時期でありました。毎日、終電かその1本前で帰宅し、それからビールを飲みながら夕食の支度と明日の朝飯と弁当の仕込みをしていると、日付が変わります。こうなりゃ意地だと思って外食はこの間一切しませんでした。

 そうそう前述したようにお袋さんの入院費用は一切かかりません。でも、お袋さんに私が掛けていた医療保険は入院1日につき5千円でます。そうなれば、取らぬ狸の皮算用、半年も入院していたら90万?なんて計算していたら、同じ病気で入院していたら2ヶ月しかでないのとのこと。ちょっとガッカリ、でもパソコンが新しくなりましたよ。

 入院中は私が一人暮らしと言うことで、何の気兼ねもいらないわけで、大平サロンコンサートの第1回が開かれたのも、お袋さんが入院している時でありました。また、ほとんど呑み会と化した宮前の森林倶楽部の収穫祭にも参加して、久々に記憶がとんだと日記にはありました。

 とりあえず、平成10年の年末から新年にかけては一時帰宅が認められ、平成11年1月3日に再び入院しました。
 そして、1月23日とうとう退院となりました。同じ病室の人へのお土産なんかも購入し、11時頃病院へ。病室では皆さんが待っていてくれてましたよ。よく玄関でお医者さんや看護婦さんとお別れするなんてシーンがありますが、なんと今回は、患者さん仲間が玄関までお見送りに来てくれました。お袋さんは人気者だったんだねぇ。手作りのアクセサリーなんかをお土産にもらっていました。

 10ヶ月におよぶ入院期間中、私の職場の同僚は勿論、妹や親戚の皆さん、懇意にしているお店や銀行さんにも気に掛けて頂きました。本当に感謝しております。継続検査としてF診療所にずっと通うことになりますが、これは後から聞いたことですけど、その診療所の女医さんは、お袋さんの結核の発病から完治までを研究発表の材料にしたとか。なんでも、こんなに急激に肺が真っ白になって、それでいてこんなに薬が効いた人も珍しいとか。普段薬を飲まない人間だったから、なんの後遺症もなく、よく効いたんでしょうね。

 以上、これが結核長期入院の顛末でありました。


※平成12年3月31日

 我がA県も行政改革という名の下、組織再編が行われました。このため、私の属していたS課は、大きく二つの課に分裂し、それぞれ他の課と事実上吸収合併されました。
 S課は、事務屋と技術屋が混在する、少々他とは違った雰囲気の課でしたが、その最後のメンバーとなったのが、写真の面々です。
 最後の課長となった稲×課長は、「ここでの出合いを忘れず、大切にしよう。」と言われ、課員全員にアルバムをプレゼントしてくれました。その中には、解散会となった大宴会の写真や、執務中の写真が入ってました。
 何をするにしても、人間は一人で生きてはいけません。組織再編によって、所謂エライさんを増やすことが、果たして本当に行革となるかどうかは、別として、最後のS課に所属していたことは、良い想い出になると思います。

※平成14年11月10日−11日 お血脈を受ける。

 菩提寺である「正受山 観音寺」で晋山式、授戒会があり、滅多に体験できないことだということで、休みをとって参加しました。
 親父の葬式の時にお世話になった観音寺のご住職がお亡くなりになって久しいのですが、この晋山式というのは、正式に新住職を寺に迎えるという儀式なのだそうです。その準備には莫大な手間暇と予算が必要となるわけで、ようやくそれが整い、今回開催の運びとなりました。
 この晋山式に加え、境内整備完成記念式典、稚児行列、首座法戦式(問答の戦いです。禅宗のお寺ですから。。)、そして、授戒会が開催されると言うことで、永平寺副監院木村励雲老師始め、お手伝いの僧侶だけで50人くらい集まっていました。

 稚児430人の行列は、付き添いの親御さんや親戚を含めれば、千人以上の人数となります。

 お正月でも、こんなに人は集まらないよね。

 ちょっとびっくり!
さて、授戒会というのは、なんぞやと言いますと、簡単に言えば、正式に仏弟子になり、その証である「お血脈」を授かると言うことであります。
 本来は7日間に亘って行われるものなのだそうですが、今回のように1日から2日の短い日程で行うこともあり、これを因脈会というそうです。今後の修練を期待して、戒師さまと法縁を結び、因縁を作っておく、と言うことらしいです。
 なんだか、今後も勉強することを前提に、単位が足りなくても修了証書を授与する民間資格みたいな気がしないでもない?ですが、わずか二日とはいえ、大変貴重な時間を過ごさせて頂きました。
 今回、集まったのは老若男女(といっても、圧倒的に女性が多く、また、若い人はいなかった)約150人、本堂に入れるのかなという、ものすごい数で、座るスペースは狭いし、正座しても胡座かいても、足は痛いし、腰も痛い。1日中というのは、ほんと殆ど拷問、大変つらかった。
 それでも、クライマックス?の懺悔道場、授戒道場は、本堂の窓や入り口に幕を下ろし、真っ暗の中、蝋燭の明かりの中で、厳かに進められ、とても雰囲気があるものでした。
 お血脈を受ける前に、これまでの罪をすべて燃やし尽くすということで、私がこれまでしてきた数々の罪も、煙となり新たに、生まれ変わったということになりました。
 お血脈は、仏陀からこれまでの弟子の系譜が書いてあるものなのだそうで、私は第83代の弟子になるのだそうな。
 ところで、落語に「お血脈」という演目があるのをご存じでしょうか。それによれば、閻魔大王の前に引き出されたときに、この「お血脈」を持っていれば、極楽へ行けるということです。
 で、これは、落語の中だけかと思っていたら、今回、授戒会の進行を色々世話したお坊さんの雑談の中でも、そんな話が出てきました。
 と、いうわけで、これで私も極楽へ行ける?かもしれません。いや、それにしても、おそらく二度と体験できない貴重な経験をさせて頂きました。
合掌

※平成16年10月10日 ケープルテレビ出演

 瀬戸市東印所町には、明治38年(1905年)に施工された、アメリゴ・ホフマン氏が設計指導したというホフマン工事跡地があります。愛知県において、「愛・地球博」が開催される来年2005年が、ちょうど100周年にあたるということで、平成16年度から、色々な企画事業を展開しました。
 その中に、愛知県と瀬戸市が共催して実施した「治山事業公開講座−森林の荒廃と復旧の歴史から展望するこれからの林人関係」という、シリーズ講座がありました。
 その第2回講座の時、瀬戸市、尾張旭市、名古屋市守山区あたりをエリアとする「グリーンシティケーブルテレビ」の取材があり、私が独占インタビュー?を受けました。
 実は、テレビ出演というのは、これが初めてではないのです。                        古くは、小学生の頃。名古屋テレビ(現 メーテレ)に「やぁ!やぁ!ガキ大将」という番組に出演したのが、一番最初です。たしか、司会は、当時、売れていた教育評論家の阿部進先生で、小学校単位で出演依頼があって、我が母校にも募集があり、大勢の友達とガヤガヤと出演した覚えがあります。でも、内容はまったく覚えていないなぁ。
 そして、2度目の出演は、県への就職も決まった大学4年の頃。これも、名古屋テレビの30分の特番番組「フレッシュ公務員に聞く!」という番組でした。今から考えると笑ってしまうようなタイトルですな。
 これに、フレッシュ公務員?3人(県から私と女性1人、大府市役所1人)で出演して、確か、出演料5千円をもらいました。収録は、半日かかりましたけど。。。
 なぜ、その番組に私が出演したかというと、実は私が選ばれたのではなくて、当時、フォルクローレ同好会で、いっしょだった友人(彼は、名古屋市を一番で合格したとか)の代理だったのです。
 ようは、友人が収録の日に都合が悪くなって、その代理はいないかということになって、私を紹介したというだけのことでした。収録の日、昔の「やぁ!やぁ!ガキ大将」のイメージがあるもんだから、てっきり、大勢の人間を集めてやるものだとばかり思って行ったら、たった3人でびっくり。他の2人も、まさか、3人と思っておらず、リクルートスーツを着てきて、よかったと、みんなで胸をなでおろした記憶があります。そういえば、ディレクターから「あんまり、椅子に座ったまま、後ろにそっくりかえらないで、ください。」と注意されたっけね。
 その時は、収録したすぐ次の日が放送で、友人達に話す暇もなかったんですが、中には、いるんですね。確か、土曜日の午前中の放送だったと思いますが、ちゃんと見ているヤツが。。。まぁ、今だったら、ビデオに撮っておくところですが、当時、家庭用のビデオなんてなかったですからね。
 で、今回の、ケーブルテレビ。結構長い間、お話しをさせていただいて、放送は、5分くらいの番組でしたか。私のインタビュー風景と、私の話をバックに、公開講座の模様を放送してくれました。
 ただ、ケーブルテレビですから、1週間の間、何度も何度も流すそうで、ひょっとすると、エリア内の人には、顔を覚えられてしまったかもしれませんですね。ヤバイよね。これは。本屋でエロ本の立ち読みさえ、できなくなる?かな。
 写真は、収録前の打合せ兼、リハーサル風景です。

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