愛知県における森林の荒廃と復旧の歴史

マイクロバス内車中解説

 それでは、現地に到着するまで、この地域の森林荒廃と復旧の歴史について、お話ししたいと思いますが、その前に、ホフマン工事のホフマンとは何か、ということに、まずふれておきます。

 ホフマンとは、人の名前ですが、オペラのお好きな方だと、まず、オッフェンバックの有名な「ホフマン物語」を思い浮かべるかと思います。勿論、それとは何の関係もありません。明治時代、日本の近代化を推進するため、数多くの外国の技術者が招かれて、その知識や技術の普及に努めて下さいました。ホフマンもその一人でありまして、今回ご案内する現場は、そのホフマンが設計指導をした工事ということで、通称「ホフマン工事」と呼ばれているものです。ホフマンが如何なる人物であり、また、その工事の内容が、どのようなものだったかという、詳しい説明は、現地に到着してからにいたしまして、まず、ここ瀬戸市について、お話しいたします。

 お手元に配付した資料にも簡単な位置図を掲載致しましたが、瀬戸市は名古屋市の北東に位置します。手元のデータによりますと、人口は、約13万人、面積は、約112平方キロメートル、平均気温は15℃、平均降水量は1,240ミリとなっております。
 名古屋の中心である栄まで、電車で30分。穏やかな気候のベッドタウンとして、発展しております。
 瀬戸と言いますと、瀬戸物、瀬戸焼、がすぐに連想されるわけですが、「瀬戸」という地名も、「陶所(すえと)」、陶器の陶に、場所の所という文字をあてますが、この「すえと」が転じて、「瀬戸」となったといわれます。
 瀬戸市の丘陵地帯には、瀬戸層群と呼ばれる第三紀鮮新世の地層がありまして、これが焼き物の原料となる良質の陶土を豊富に含んでおります。

 瀬戸の焼き物産業の始まりは、近年の発掘調査などで、平安中期までさかのぼることが明らかになっており、瀬戸焼は1,300年の伝統を持つと一口に言われますが、この瀬戸焼を全国的に広めたのが、陶祖、藤四郎(とうしろう)です。陶芸の陶に、祖先の祖、藤四郎は、藤の花の藤に四郎ですが、陶祖、藤四郎と呼ばれる、鎌倉時代の人が全国に広めたと言われています。
 この人物が祭られているのが、
この左手にあります(ちょっと、すぎてしまいましたが)(もうすぐ、見えてくる)
深川神社です。また、今から向かうホフマン工事施工地の隣には、陶祖公園というものがありますが、ここには、この藤四郎の業績をたたえた、陶製の碑、高さが4.1mとのことですが、六角塔の陶祖碑があるそうです。そして、4月の第3土曜、日曜には、「陶祖まつり」というものが開催されています。

 お祭りと言いますと、もう一つ、毎年9月の第2土・日曜日には、「せともの祭り」が開催されています。こちらは、磁祖、為吉(ためきち)、陶磁器の磁、祖先の祖、で磁祖ですが、磁祖、為吉の功績をたたえた祭りとなっております。この為吉という人は、江戸時代に、一度衰退してしまった瀬戸のやきものを、もう一度、復活させた人として有名であります。この「せともの祭り」では、
右手に流れております、(街の真ん中に流れております)
瀬戸川にそって、瀬戸物を商う屋台が軒を連ね、お値打ちな瀬戸物を求め、全国から50万人の人がこの地を訪れると言うことです。

 と、このように、瀬戸を語るには瀬戸物、窯業をなくして語ることはできません。
 桃山時代の焼き物を復刻した、昭和の偉大な陶芸家、加藤唐九郎によれば、リュック一杯の土をしょってくれば、だいたい200〜300の茶碗ができる、とのことです。しかし、これを焼くための燃料、特に火力の強いマツ材がよいそうですが、その使用量たるや膨大なものとなる、ということです。
 このことからも判るとおり、昔の焼き物師達は、燃料の木材を求め、転々とこの付近を移動して、その地に窯をつくり、焼き物を焼いたと考えられています。その歴史が平安時代まで遡ることができるとなれば、かなりの森林が伐採され、放置された後、自然に再生し、そしてまた、伐採される、と言うことを繰り返してきたのだと思います。ただし、先程申し上げたとおり、この付近の地質は、第三紀鮮新世という、固い岩盤まで固まっていない比較的新しい時代のもので、浸食に弱いものでした。また、山の方へ行きますと、風化しやすい花崗岩質が広がっています。このため、一度、荒廃してしまうと、なかなか自然には再生することが難しい地域でした。
 そこで、享保(きょうほう)年間、西暦で言いますと1716年〜1735年ですが、砂留林、砂を留める、留守番の留と書きますが、今でいう保安林に当たる砂留林を、すでに尾張藩は設置しております。また、天明2年、西暦で言いますと、1782年。瀬戸市の北の方、今の中水野町にあった、江戸時代の役所である水野陣屋に、山方係(やまかたかかり)という担当がおかれ、初めて植樹の制度が設けられたと、記録にあります。
 その内容は、ハンノキとマツの苗を隔年で交互に植樹していくというもので、毎年、村の庄屋は、水源普請と称して計画を陣屋へ申請し、植樹を行っていたようです。これが、愛知県におけるハゲ山復旧工事の始まりと言われています。
 しかし、幕末の動乱期ともなりますと、藩の所有する森林であろうと、砂留林であろうと、公然と伐採することも行われ、森林の荒廃は甚だしいものとなりました。

 さて、明治新政府となって、国や県の経費補助でハゲ山復旧が行われたのは、明治8年、西暦で言いますと1875年に土木費課法が布達された後だといいます。しかし、山地の荒廃を止めることはできず、その被害は年を追って大きくなっていったとのことです。
 明治11年1878年、県の上申を受けて、内務省は、オランダ人のデレーケを派遣して木曽三川の中下流域の現地踏査を行いました。デレーケは、30年という長期にわたり日本に滞在し、淀川、木曽三川、九頭竜川など主要な河川の改修に実績を残し、研究書も数多くでておりますので、ご存じの方も多いと思います。このデレーケの計画による砂防工事が、ここ旧瀬戸村においても、内務省土木局の直轄工事として実施されております。この工事は、財政難から継続が困難となり、その後は、単に土砂の流出を留める土堰堤などは、いくつか造られましたが、ハゲ山を直接復旧するような工事は、積極的には行われませんでした。
 明治30年1898年に、森林法と砂防法が公布されると、ようやく、ハゲ山復旧と森林の保全は、国からの補助を得て、県によって積極的に実施されるようになり、明治33年1900年に、旧瀬戸町字西茨などで、工事が実施されました。これが、ハゲ山復旧の本格的開始とされておりまして、これ以降、継続して施工されていくこととなります。

 では、この時期、愛知県全体でどれくらい荒廃地があったかと申しますと、明治38年の調査の記録というものが残っておりまして、それによれば、21,754haとも31,549haとも言われています。特に、御料林の荒廃が甚だしかったといいますから、幕末から明治維新にかけての混乱期に、いかに盗伐や乱伐が激しかったかがわかります。
 当時の深野知事は、このハゲ山を復旧し、さらに将来は、その工事費の見返りとして林業収入が得られることを見込んで、御料林を買収して県有林としてはどうかと考えました。そこで、東京帝国大学農科大学の河合教授に調査を依頼したわけですが、その報告書の中に、瀬戸地方の地質についての記述があり、ハゲ山復旧の設計案として示されたのが、いわゆるホフマン工事であります。ホフマン工事については、現地にて、詳しく説明致しますので、ここでは省略させていただきます。
 それで、県は、明治39年(1906)に、約8千haの御料林の買い入れを決定し、明治40年を初年度とする砂防設備30カ年計画を開始しました。実は、これが本県のハゲ山復旧の基礎であり、また、現在の豊かな緑の礎となっているものです。

 そして、明治43年1910年には、皇太子殿下、後の大正天皇ですが、瀬戸に行啓され、復旧状況をご視察されるということもありました。
 国では、明治44年1911年の第一期森林治水事業が策定され、大正、昭和と継続して復旧事業が実施されていきまして、昭和11年頃には、瀬戸地域の森林もかなり回復されてきたとのことです。
 しかし、昭和12年1937年の日中事変を皮切りに、日本は多難な時代を迎えます。戦争による労力・物資の不足、そして、燃料や食料不足からの森林の乱伐や開墾がこれに拍車をかけ、これまで育成された森林が、再びハゲ山に戻ってしまうという事態が起きてしまいます。
 昭和22年1947年、林野庁が設置され、治山課が創設されます。これ以降、治山事業として新たなハゲ山復旧の取組がなされていきますが、昭和32年、瀬戸市は記録的な集中豪雨に見舞われてしまいます。尾根筋に以前から存在したハゲ山に、新たな災害による崩壊地が加わって荒廃をより激しいものにしました。災害といえば、愛知県史上最大の犠牲者を出した伊勢湾台風は、昭和34年のことです。(私の生まれた年です。)この伊勢湾台風が契機となって、国では「治山治水緊急措置法」が公布・施行されました。この法律によって第1次治山事業10カ年計画が策定され、第9次の計画が終了する平成15年まで、この計画は続けられました。

 さて、明治時代から始まった本県のハゲ山復旧ですが、これまで、お話ししてきたように、数多くの苦難の時代を経て、高度成長期のまっただ中、ようやく、昭和44年を最後に、ほぼ完全に修復されました。この地域では、明治33年の1900年から昭和44年の1969年まで、実に69年の長い年月を要しました。復旧したハゲ山は、2,700haあまりと言われています。
 ハゲ山が復旧された後の森林は、その多くは保安林として整備され今日にいたっております。本格的に復旧工事が開始された明治33年から数えて、約100年。復旧工事として導入されたクロマツ、ヤシャブシ、ハギ、ススキが土砂を留め、今日まで続く、保安林整備により森林土壌が形成された結果、アカマツ、アベマキ、ソヨゴなどが、自然進入して現在のような豊かな森林となりました。
 このように、本県の治山事業は、過去から現在まで連綿と続いており、ホフマン工事は、その歴史のほんの一コマであることを、ご念頭に置いた上で、ご視察くださることをお願い申し上げます。

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