ホフマン工事について

施工跡地における現地解説

 それでは説明させていただきますが、その前に、まず、我々の立っている位置を確認したいと思います。
 お配り致しました資料の10ページをご覧下さい。

 中央にあります印所公園、印の所と書いて「いんぞ」と呼びますが、今、我々はそこに立っております。そして、皆様の左手に見えるのが、ホフマン工事の中では、第3号堰堤とよばれているものです。
 ホフマン工事では、5基の堰堤が造られましたが、これに下流から順番に1号、2号と番号が振られています。バスを降りて、ここまで歩いてこられて、おわかりのとおり、1号、2号は、すでに原形をとどめてはおりません。また、この3号堰堤は、ホフマンの設計した堰堤を嵩上げして、より多くの土砂を止めることができるよう改修されております。これらの改修の経緯については、おってご説明致します。

 さて、それでは、まず最初にホフマン工事とは、どのようなものなのか、ということから始めさせていただきます。
 マイクロバスの中でもご説明したと思いますが、江戸末期から明治の始めにかけて、ここ瀬戸市や万博が開かれる長久手町等、名古屋東部丘陵地帯、まぁ、この辺り一帯をそう呼んでいるのですが、名古屋東部丘陵地帯には、ハゲ山が広がっていました。
 このハゲ山をなんとかしようと、当時の深野愛知県知事は、明治38年、西暦で言いますと1905年、工事の設計を東京帝国大学農科大学に依頼しました。その時に提出されたのが、林学科学生の山崎嘉雄(やまざき よしお)、弘世孝蔵(ひろせ こうぞう)のお二人が卒業論文としてまとめた設計書でした。そして、その卒論の作成を指導したのが、当時東京大学にオーストリアから招かれて教鞭をとっていた、ホフマン氏だったというわけです。

 このパネル(差し棒で提示)がその時の「設計平面図」です。お手元の資料では、5ページになります。この第1支渓、この第2支渓、そして、この第3支渓について設計されたのですが、この内、弘世(ひろせ)の設計した第2支渓が、模範工事として、愛知県により施工されました。これが、後に、ホフマンの設計思想を表しているということで、ホフマン工事と呼ばれるようになりました。

 さて、その内容ですが、お手元の資料の9ページに、当時の工種配置を図式化したものがございます。
 工種としては、土堰堤が5基、第1級柳柵19箇所、第2級柳柵26箇所 その他となっております。
 土堰堤というのは、文字通り土を締め固めて造ったダムですが、水の流れる部分には石を張った構造となっています。お手元の資料の7ページに当時の写真があります。
 柳柵については、資料の6ページに図面がございます。大変見づらい図面で恐縮ですが、これは、丸太を杭として土の中に打ち込み、その杭の間を柳の枝で編んで、地上約1mの高さの土留めをこしらえたと、ご理解して下されば良いと思います。丸太の素材には、マツやハンノキ、ナラ等が使われました。そして、土を盛った後、柳の枝を挿した、と設計書にはあります。また、第1級と第2級の違いは、規模の違い、横の長さの違い、とご理解下さい。ただし、これらの柳柵は、後でご説明致しますが、施工後の災害で破壊されまして、明治42年にすべて別のものに改修されていますので、現在は、残っておりません。
 それから、このホフマン工事にかかった費用についてですが、これは竣工設計書というものが、残っておりまして、それによれば、2,566円16銭3厘となっております。現在のお金に直すと、1700万円位ではないかと、考えられます。当時は、業者に発注するのではなく、県が地元の人を直接雇って実施しております。先人達の努力と地元の方々のご協力には頭が下がる思いであります。

 ところで、このホフマン工事の特徴は何か、と言いますと、簡単に言えば、崩壊している山の斜面には手を加えずに自然のままで放置し、雨による流出土砂等は、土堰堤や柳柵で留めて、山腹や渓流の安定を図り、植生が自然に進入してくるのを待つ工法である、ということであります。これは、当時、オーストリアやフランスなどヨーロッパ地方で、広く用いられていた工法でした。それまでの日本は、ちょっとこのパネルを見ていただきたいのですが、このように山腹斜面を階段状に切りつけて、そこに樹木の苗木を植えていくという工法で、これを各地でさかんにやっておりました。
 実は、このホフマンの工法、手間のかかる植栽を行わずに、自然植生が進入してくるのを待つという方法は、工法としては、愛知県において、その後、採用されることはありませんでした。と言いますのも、本県の風土、ハゲ山の地質を考えると、従来の工法の方が、速やかに森林の復旧が図られるからで、ホフマン以後も、植栽による復旧工事は続けられました。お手元の資料の表紙を見ていただきますと、緑で覆われた山々の中、ホフマン工法で復旧を図った尾根筋だけが、未だに荒廃したままであるのが、お判りかと思います。

 それでは、ホフマン工事の意義は何だったのかといいますと、それは、近代科学に基礎を置いた、新しい考え方に基づいて、施設を設計した、というところにあります。
 例えば、土堰堤ですが、それは、これまで、単に、流れ出す土を止めるためのものでした。しかし、ホフマンは、これを一つの渓流に連続して配置することにより、それぞれの堰堤に溜まった土砂によって、渓流全体の勾配を緩くする考え方を導入しました。このため、渓流の高低差を測量して、渓床縦断図というものを作成しましたが、今では、当たり前のように作成されている、この渓床縦断図が作られたのは、我が国では、ホフマン工事が初めてのことと言われています。また、堰堤の水の流れるところを放水路といいますが、その断面積の大きさや、あるいは、土堰堤の厚さ等を、力学や水理学を応用して設計しています。これも、当時の我が国にはないもので、ホフマンにより、ヨーロッパから導入されたものでした。このような、科学的な考え方は、その後の治山技術の発展に大きな影響を与えました。

 では次に、このホフマン、アメリゴ・ホフマンという人物は、如何なる人物だったかについてお話し致します。
 記録によれば、明治8年、西暦で言いますと1875年、イタリアのトリエステに生まれ、昭和20年1945年イタリアのタルビシオで亡くなったということです。と、こう申し上げると何ということもないのですが、このホフマンがイタリア人なのかオーストリア人なのか、これが問題でして、お生まれになった当時、トリエステはオーストリア−ハンガリー帝国の領域に含まれていたため、色々な昔の資料ではオーストリア人と記載されています。しかし、現在では、トリエステもタルビシオもイタリア国内にありますので、ここではイタリア人としておきたいと思います。

 さて、ホフマンは、1897年ウィーン農科大学を卒業後、オーストリア政府の森林官となり、工事の設計や実行監督に従事しました。その後、森林監督官や砂防工事指揮官を歴任し、明治37年西暦1904年、東京帝国大学農科大学に招かれました。それから5年間、森林理水学と砂防工学についての講義と実習を担当して、学生を指導したとのことです。
 明治42年に帰国していますが、その前に、在任中の功績により、勲四等旭日章(きょくじつしょう)を受章しています。帰国後は、ウィーン農科大学の教授に就任し、その後、第一次世界大戦の終了にともない、イタリアに帰国。イタリアの森林省林野局に勤務し、後に、総局長、日本で言えば、林野庁長官といったところでしょうか、総局長に就任し、イタリアの森林行政を指導したとのことです。
 何より興味深いのは、その子供であるアルベルト・ホフマン、そして、孫にあたる同名のアメリゴ・ホフマンと三代にわたり、森林学者・森林行政官として功績を残していることです。
 ちなみに、お孫さんにあたるアメリゴ・ホフマンは、平成12年、東京大学の「森林理水および砂防工学研究室」創立100周年を記念して日本に招かれ、この現場も視察されています。後で、ご案内致しますが、その時の記念に、ヤマモモの植樹を行っています。

 さて、最後になりますが、ホフマン工事のその後についてお話しします。
 明治38年、ホフマンの指導した設計書に基づいて、工事が施工されたわけですが、その後豪雨災害に見舞われました。そして、土堰堤は、法面がくずれ、また、柳柵は崩壊して流出してしまったため、明治42年、ホフマン工事の施工後、わずか4年後のことですが、この柳柵は、先程申しましたとおり、40個の鉄線蛇篭谷止工に改修されております。鉄線蛇籠谷止工とは、鉄線で編んだ袋状のものに、石をつめて谷止工に仕立てたもので、お手元の資料の7ページに写真が載せてあります。
 この改修工事は、かなり大きなもので、経費は、1,111円68銭7厘だったといいます。元の工事の40%以上の経費がかかったことになります。
 昭和の初め頃になりますと、尾根筋を除いて植生が自然進入し、森林が回復してきましたが、第二次世界大戦の戦中、戦後の乱伐と開墾が原因で、再び、荒廃が進んでしまいます。このような状況の下、流出する土砂を留めるため、昭和34年1959年に、第3号土堰堤、この左手の土堰堤ですが、これが嵩上げされることになります。そして、その堆積土砂で、第4号、第5号堰堤は、かつての姿のまま、土の中に埋まり、また、第1号、第2号堰堤は、その後、施工された流路工等で、先ほど申し上げたとおり、原形をとどめてはおりません。
 このため、現在、目で見ることができるホフマンの設計した構造物は、地表にわずかに現れている第5号堰堤の一部だけということになっております。他には、上流部の山の中にはいりますと、明治43年の改修工事で施工された鉄線蛇篭谷止工の後が数カ所確認することができます。これは、お手元の資料の10ページに示してあるとおりであります。
 そして、尾根筋はまだ荒廃したままですが、それ以外は、アカマツやコナラ、ソヨゴ等が進入し、自然林化が進んでいます。
 現在、この地は、県有林となっておりまして、一般には立入を御遠慮申し上げております。このため、ほとんどが土の中に埋没している施設とはいえ、これまで踏み荒らされることもなく、また、このように、着実に森林を回復させることができたのではないかと思っております。
 愛知県では、今後とも、明治の時代から今日まで、脈々と引き継がれてきた治山・砂防技術におけるホフマン工事の歴史的価値を考え、できる限り自然の状態で、未来に引き継いでいきたいと考えております。
 説明は以上でございます。

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