永 遠 の ゼ ロ

平成22年1月〜6月ネット上にて公表 

  色々な本や色々な映画、芝居、音楽等と、何の節操もなくただただ雑多にふれあっていても、単に感動したとか、面白かったという以上に、出会うことが出来て良かったなぁ、この時期に出会うべくして出会った作品だなぁ、なんて思わせてくれるモノに、時々ぶつかるものである。それは、自分自身がたまたまその作品の中で描かれているものと同じ事で悩んでいたり、知りたい知りたいと思っていたことを作品の中で解説していたり、あるいは、たまたま同時代に生きていたというタイミング等、偶然?に寄るものが多い。私の場合、映画で言えば、大森一樹監督の「ピポクラテスたち」とか、演劇で言えば、先頃亡くなられた森繁久彌の「屋根の上のバイオリン弾き」などが、それに当たる。

 そして、本屋の平積みの中で見つけた妙なタイトルに「なんのこっちゃ?」と手に取った「永遠のゼロ」(百田尚樹著)も、まさにそんな作品だった。

 「ゼロ」とは、ゼロ式戦闘機、いわゆる零戦のことである。第二次世界大戦についての著作は、フィクション、ノンフィクションを問わずあまたあり、名著、名作と呼ばれるものも沢山ある。そんな中でこの小説は、第二次世界大戦の概観をつかむ入門編として、あるいは、より深く探求する前の知識の整理用としても、最適だと思われる。私にとっては、今まで断片的に得ていた知識というか情報を総括するのには、ちょぅどよいものだった。勿論、小説としての魅力、読者をぐいぐい引きつけるストーリー展開もすばらしく、結構なボリュームにもかかわらず、久々に一気読みをしてしまった作品である。

 話は、出版社に勤める姉と司法試験浪人中の弟が、特攻で散った本当のおじいさん(おばあさんは再婚して、今のおじいさんは、義理のおじいさんという設定)は、どんな人だったかを、昔の戦友等を訪ね歩いて、その実像に迫っていくというものである。つまり、戦争についての話は、何人かの戦争体験者から主人公達への「語り」として描かれるわけで、そこには、難しい表現や文学的な表現、あるいは堅苦しい論文調の言い回しなどはでてこない。これが「永遠のゼロ」を、あの時代への導入の書として、取っつきやすいものにしている。

 まぁ、確かに一人一人の戦争体験者が、あそこまで当時の全体像を把握して語ろうとするには、終戦後、相当自分で研究しなければならないとは思うが、そこは、フィクション。目をつぶることとして、読者は、この何人かの戦争体験者の語りによって、主人公達と共に、まったく知らなかった第二次大戦というものを学び、目から鱗を落としながら、徐々におじいさんの生き様に迫っていくことになる。そして、クライマックス。最後の最後に衝撃の真実にぶつかる!という展開で、暗い内容ながら、実にさわやかな読後感が味わえる作品である。

 初めての人には、結構びっくりすることも多いかもしれない。
 良くも悪くも戦争というものは、勝つことが最終目的のはずである。にもかかわらず、官僚化した軍隊組織が、成果主義、点数主義に陥っていたとはお笑いぐさである。これでは、いくら兵隊さんが最強でも、勝てるわけがない。その内容は、本を読んでくださいと言うことになるが、情けないことに、現在の行政にも、一部成果主義が持ち込まれ、これをもっと強化する方向に動いている。そして、世間ではそれが正しいと思われている。噴飯ものである。これはもう負け戦となることは間違いはない。(何に?って、時代、あるいは歴史にですよ)

 ところで、私が、この時期、この作品に出会えた偶然に感謝している理由は、実は、最近、とみにあの時代が気になっていたからなのである。

 というのも、私自身の人生が半世紀を過ぎ、親父の死んだ歳まで、あと15年を切った今、親父やお袋が青春時代を過ごしたあの時代、おそらくその後の人生観を決定づけた時代を、もっともっと知りたいと考えるようになってきたのである。

 私が生まれたのは、昭和34年。もはや戦後ではないと言われていた時代である。逆に言えば、そう断らなければならない時代でもあったわけである。それでも、小学校の給食には脱脂粉乳が出たし、名古屋駅に行けば、傷痍軍人とおぼしき人が、アコーディオンを弾いていたことを覚えている。そういえば、私の中学の英語の先生に、特攻の生き残りと言われている方がいらした。今から思えば、学徒動員からのいわゆる特攻要員だったのだろう。当時の飛行機乗りは、超エリートだったのだね。 

 私の親父は、大正13年生まれ、お袋は昭和5年生まれ。いずれも、一番輝かしい時代であるはずの青春時代に戦争を体験している世代である。親父は、満州で工兵として戦い、お袋は、爆弾の降る中を逃げ回ったとか。そんな親父も平成2年にあの世に逝ってしまった。もし、親父が満州で命を落としていれば、あるいは、お袋が焼夷弾の直撃を食らっていれば、私の存在はなかったと言うことになる。今になって、もっと親父の体験を聞いておけば良かったと思う。

 平成の世に変わって、はや20年以上たった。にも関わらず、沖縄には今なお基地が残り、靖国さえ結論付いていない。 
 昭和という時代が遠くなり、司馬遼太郎の言う「もの狂いした狂気の時代」について、語ることが出来る人が生きていられるのもあとわずか。早く総括しないとうやむやになってしまう気がする。
 ナチスという明確な何かがあったドイツと違い、日本は、全国民の雰囲気として、いや勿論、それを煽ったモノやきっかけとなった事件があったにせよ、何かムードとして、それに反対することが出来ない雰囲気の中で、全体が狂気に走っていった感が、私はしている。一度本気で総括しておかないと、同じような何かが起こりはしないだろうか。

 そんなことを考えると、「永遠のゼロ」というタイトルは、とてもとても意味深なものに思えるのである。

(ねむり姫 51歳)