ポケットの中のチューインガム…

平成24年7月〜12月ネット上にて公表 

 人類はもはや進化しない、いや、進化できないって科学者が言及したのは何年ぐらい前だったでしょう。

 でも、漫画や小説や映画の世界では、近い将来、ホモサピエンスを超える何者かがこの世に現れ、人類を導いてくれるなんてことが、これまでもよく描かれてきました。

 たとえば、竹宮恵子の「地球へ」(古いなぁ!)。
 この作品では、ヒトの誕生から死までを完全管理してきたシステムが破綻した近未来、途方に暮れるばかりの人類を、それまで認知さえされなかったミュー(ミュータントの意味か?)と呼ばれる新人類達が、新たな世界に導いていく姿が最後に描かれます。映画化もされた壮大なスペースファンタジーでした。

 このようなストーリーは、我々の願望を表しているのかもしれません。
 二つ世界大戦と東西冷戦を経て、色々問題はあっても、これできっと平和に向かうとだろうと、誰もが期待したにもかかわらず、未だに紛争も貧困もなくなるどころか、激しくなるばかり。自由主義経済を中心とした資本主義が行き詰まっていることは明白だし、見栄っ張りで、自己中で、残忍な人類には、やっぱりこのまま地球をまかすわけにはいかない。誰か、というか何か救世主のような存在が出てきてくれないか?と願うのは至極当然のことかもしれません。

 最近、池上永一の「シャングリ・ラ」、高野和明の「ジェノサイド」を立て続けに読みました。近未来あるいは現代?物ですが、どちらもホモサピエンスを超えるモノの存在や誕生を期待しています。

 シャングリ・ラの方は、東京が舞台。森が重要な要素となり、平安絵巻さながらの和の設定とハリウッド映画顔負けの息もつかぬアクションの連続と何でもありなんですが、ファンタジーとしては掟破りの、事が起こってから、それが可能となる理屈を説明するパターンが多いかったかな?でも読み出すと止まらない面白さでした。(なぜか、マツコ・デラックスを思い浮かべてしまうキャラが登場するのが可笑しい)

 ジェノサイドの方は、ちょいと内容が難しいです。日本とアフリカ、過去と現在が交錯するストーリーの面白さもさることながら、知的好奇心をくすぐる理論があふれんばかりに展開します。その内容は、私の知識の幅を遙かに超えていました。
 分野としては真逆ですが、かつて荒俣宏の帝都物語を読んだときも、ファンタジーには必要不可欠となる作者が練り上げたフレームの構造、これが理解できませんでした。つまり、筆者が練りに練って作り上げた世界(背景)に、私の知識がついていけず、(ま、ついていけなくても小説そのものを楽しむには何ら支障はないのですが)、何とかそこに追いつこうと、ずいぶん関連分野の本を読みました。それは今でも続いています。たぶん、このジェノサイドも、後を引くことは間違いないでしょう。

 で、なんやかんや言って、やっぱりホモサピエンスを超える新しい「種」に期待するしかないのかなぁとなってしまうわけですが、いやいやそうでもないかもよ、と認識を新たにさせてくれたのが、今年の1月から2月にかけ、4回にわたって放送されたNHKスペシャル「ヒューマン、ヒトはなぜ人間になれたのか」でした。角川から書籍も出ていますが、放送の方が簡潔でインパクトがありました。

 遙か何百万年も昔、アフリカから始まった我々人類の気が遠くなるような長〜い旅。その進化の歴史は、闘争の連続?強いモノだけが生き残るサバイバルゲーム。原人、ネアンデルタール人等、並み居るライバルたちを蹴散らし蹴散らし、力と知恵でねじ伏せて、なんとか勝者となることができたのがホモサピエンスであると、これまで私は思ってきました。弱肉強食の理論ですね。ところが、どうもそれは違うらしいと言うわけです。

 争いに勝つ力よりも、分かち合いと協力、つまり、環境が激変する中、わずかな食料を分かち合い、互いを慈しみ、遠く離れた他のグループとも親密な交流を図ることができた種だけが、生き残ることができた、それがホモサピエンスだったと番組は論じます。

 そして、貨幣の誕生により、より広範囲に交流できるようになり、爆発的に発展(ある意味退廃?)してきたわけですが、この人類の発展に寄与してきた、見知らぬ相手さえ慈しむという意識は、潜在的に今の我々にも残っていることを、ある実験で証明します。これが放送では結構感動的でありました。書籍の方では、さほどドラマチックな記述にはなっていませんけど…。

 相手の「痛み」を自分自身の痛みと同じように慮り、あるいは想像し、はたまた妄想して認識できるのは、ホモサピエンスだけ。これが協力と分かち合いを生み、種をこれまで存続させることができたポイントなのかもしれません。

 たとえば超能力で、相手の心が読める、予知能力がある、あるいは千里眼があるなんてのは、SFの世界でよく描かれる次世代?の進化した人類の姿ですが、彼らには、相手の心を慮るなんて芸当はできません。だって慮らなくても正確に解ってしまいますもんね。慮るということと、心情を透視するというのは結果が同じになったとしても、別物です。相手が思っていることを正確に把握して、だからこうしましたというのでは、たぶんきっと意味がないんでしょう。(おそらくそれができてしまったら、恋愛もつまんないものになるかもなぁ)

 その「慮る」という能力がまだ我々に潜在的に残っているとなれば、ホモサピエンスもまんざらでもないかもよ!ってわけです。

 世界の富を一部のヒトが独占して贅沢な生活をしている一方、餓死する子供たちが絶えないというのはどう考えても異常でしょう。70億の人すべてが、とりあえず、雨露しのげる家に住み、明日の飯の心配することなく、安心して今晩ぐっすり眠れることができる、そんな環境があたりまえになって欲しいものです。それには、やはり先進諸国が率先して物質文明から脱却し、拝金主義を唾棄すべきものと認識せねばなりません。その結果、今より生活水準を下げざるを得ない人が生じても仕方がないのではないかなぁ。

 先頃海外トピックで、戦乱のユーゴを脱出し、名門コロンビア大学の清掃員をしながら同大学を12年かけて卒業した人が話題になりました。その人の言葉がステキではないですか。「豊かさは私の心の中にあります。ポケットの中でなくてね。」

 そういえば、かつて美空ひばりはこう歌いました。〜右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチューインガム〜

 ため込むことばかり考えていては、ちょっと情けない。チューインガムがたまったら周りの人と分かち合わなきゃ、ね!

(ねむり姫 53歳)