ボランティアについて

平成13年3月〜8月ネット上にて公表

 今年、2001年は、ボランティア国際年であります。
 と書いている、私も、つい先日「大阪ボランティア協会事務局長」の早瀬昇氏の講演を聴くまでは、まったく不勉強で知りませんでした。
 そして、国連で、2001年を国際ボランティア年にしようと提案したのが、あの小渕さんで、当然の事ながらそのきっかけとなったのが、阪神淡路大震災である、ってことも初めて知りました。

 私が聞いた講演は、一般市民を対象にした「生涯学習講座」の中のメニューの一つで、専門的でも、学術的でもありませんでしたが、色々考えさせられました。

 日本人にとっては、まだ、「私、ボランティアしてます。」という人に対し、「まぁ、それは御奇特な・・・。」という答えが返ってくることが多いわけです。それは、奉仕という言葉が、滅私奉公にどこか繋がっている感じがしてしまうからなのでしょう。
 でも、早瀬氏が言うには、奉仕とボランティアは、対語・反対語の関係にあるといいます。


 ボランティアは、我慢してするものではなく、我慢できないからするもの、「ほっとかれへん!」という感覚から、自発的に活動するものなのである。と、いうわけです。
 今回の講演でも話がありましたが、行政サイドにとっても、「行政サービスの穴埋め」という側面が、ボランティア活動にはあります。ただ、考えてみると、穴埋めというより、まったく、視点の違ったものなんじゃないかな、とも私は思います。

 大震災の時、行政はなかなか動いてくれなかった。これを早瀬氏は、動いてくれなかったのではなく、動けなかったと、分析します。
 行政の根本は「公平・平等」の原理です。震災の全貌が明らかにならない限り、動くことができなかったのが本当のところでしょう。これに対し、ボランティアは、不平等?は、あたりまえです。自分の出来ることを行うのですから・・・。
 たとえば、手話グループの活動団体に、目の不自由な方が「私もハンディを持っているのだから、なんとかしてくれ。」と頼んでも、何も出来ないですし、また、何もしなくても、どこからも非難は浴びません。しかし、これが行政サービスとなると、こうはいきません。震災の時も、避難所近くの人々だけを対象に、行政が動くわけには行かなかったのでしょうね。

 勿論、非常時における対応として、行政側も真摯に批判は受けるべきですが(と、まだ、行政側にいる私としては言わざるを得ませんね。)、このような非常時は、別として、通常の社会生活において、行政なんぞに頼らず生活できるような社会になれば、必然的に公務員の仕事は減り、税金も安くできるとは思います。

 ボランティア活動といっても、そんなに大上段に構えず、献血にしたって、電車の中で席を譲ることにしたって、みんなボランティアですよね。
 私が設立に関わった「宮前の森林倶楽部」も、一応は森林ボランティアの団体ですが、その設立に当たって、宮前の森林が荒れている、このままではいけない、なんとかしよう!といった、悲壮な決断があったわけでなく、みんなで森の中で楽しみましょう、というのがコンセプトでした。(詳しくは、TOPページに戻って「番外編 宮前の森林倶楽部」を御覧ください。)

 最後に、早瀬氏が講演の中で話された「ボランティア活動は恋愛に似ている10箇条」を紹介して終わります。

   1 ともに、自発的な無償の行為だ。
   2 ともに、対象を選べる。
   3 ともに、好きであることが選択の重要な基準となる。
   4 ともに、「機能」以上に「存在」に意味がある関わりである。
   5 ともに、出会いは偶然によるところが多い。
   6 ともに、しんどいこともあるが、自分自身も元気になる活動だ。
   7 ともに、自分だけが満足するだけではうまくいかない。
   8 ともに、続けることで多くの出会いができるが、続ける「だけ」になると陳腐化する。
   9 ともに、止める時、別れる時が辛く難しい。
  10 ともに、心移りをすることがある。

 で、早瀬氏は、こう結びます。

 だから、ボランティア活動の「心構え」は親友とつき合う際のルールと同じである。

    (ねむり姫 42歳)