愛国心について考える

平成18年8月〜12月ネット上にて公表

 

 最近、愛国心についての論議がかまびすしい。
 愛国心とは、読んで字のごとく、国を愛する心であって、国民なら当然持っているもの、持っているべきものではあるが、これをひとたび権力者側が口にすると、途端にいかがわしいものになってしまう。
 日本の例を出すと語弊があるのでアメリカの事例で考えてみよう。かつて、
 ベトナム戦争が泥沼化している頃、死をも顧みず戦地入りしたジャーナリスト達からは、自国に向けて、「これは果たして正義の戦いか?アメリカの為に即刻、終結、撤退すべきだ。」と盛んに報道がなされた。これを受け、国内外で反戦ムードが高まっていくわけだが、時の大統領は、これらのジャーナリスト達を非国民扱いしたものである。つまり、愛国心のかけらもない輩だというわけである。果たして本当の愛国心を持っていたのはどちらだったのだろうか。

 これはとりもなおさず、国とは何ぞやという問題になってくるが、少なくとも、この場合の国とは政府を指すのではないことだけは確かだろう。考えてみれば、故郷を思い出すときに、県庁や市役所や役場を思い起こさないのと同様、国を思うのに、大統領や首相の顔を思い起こす人はいない。つまり、この場合の国とは、家族であり、友人であり、恋人であり、国土であり、文化であり、そこに暮らす生活そのものを指しているのである。だから、愛国心は、決して人から強制されるものではなく、日々の生活の中で自然と身に付き、心の中からにじみ出てくるものでなければ、本物ではない気がする。ただ最近の犯罪をみると、今や、夫と妻の間は勿論、最も身近な関係であるはずの親と子や隣人間も、信頼できる間柄ではなくなってきているようで、これが、改めて愛国心を声高に叫んで確認しなければ気がすまない一番の原因かもしれない。なんと嘆かわしいことか。

 愛国心というか国を愛する民の力を音楽で表現した映画というのは、結構たくさんある。
 横暴なドイツ兵に対し、ボガードが音頭をとって店中でラ・マルセイユーズを大合唱したのは、名画「カサブランカ」である。これは、映画史上に残る名シーンとなった。
 さらに、ミュージカルの金字塔「サウンド・オブ・ミュージック」では、感極まって歌えなくなってしまったトラップ大佐に代わって、ゲシュタポの監視をものともせず、観客全員でエーデルワイスを大合唱した。これも、涙なしでは見られないシーンだった。
 そして、スタローン主演「勝利への脱出」のクライマックスでは、サッカースタジアムを揺さぶるラ・マルセイユーズの大合唱が、小賢しい脱走計画なんぞぶっ飛ばしてしまった。(この映画、エンドマークの代わりにVサインが画面いっぱいに出たっけね。)
 このように書くと、日本の「君が代」や「日の丸」は民衆が生んだものではないから、国歌、国旗にふさわしくないと言う人がいる。何をか言わんや。その国の歴史、文化、全てをひっくるめて国である。たとえ狂気の時代があろうとも、それも紛れもない歴史の一頁であり、それを補って余りある行いをしていくのが子孫の勤めというものではないか。また、「君が代」の歌詞が気に入らないという人がいる。しかし、たとえば、ラ・マルセイユーズの歌詞は、そのような人たちが大嫌いな軍歌そのものである。
 オリンピックやワールドカップで「日の丸」とともに歌われる「君が代」は、歴史の重みを持つているからこそ、感動的なのだと思う。

 愛国心たるものを教えたり、評価したりする前に、やらねばならないことは沢山ある。最近、初等教育で英語を教えるとか、さらには株取引を教えようなどという動きがあるが、まさに亡国への道だと思う。電卓があるから算盤を学ばなくて良いという理論が正しいのならば、英会話なんぞ、通訳という職業人がいる限り、必要はないのである。日本のエリートは英会話の発音は一流だが、内容は三流とは、よく言われることである。それはそうであろう。自国の文化に誇りと畏敬の念を持つような知識がないため、本当の意味での異文化コミュニケーションが成り立たないのである。
 海外旅行で役立つ英会話を教育として学校で教える必要はまったくない。そんなことは、「駅前に留学」して覚えればよいのである。高校程度を卒業すれば、誰でも辞書を片手に、どんなに難しい英語の論文でもそれなりに理解できるだけの力がついた今までの英語教育は、私は間違っていないと思う。
 日本古来の文化、芸術、芸能をもっともっと学ぶ必要があると言うことは、私の持論であり、再三再四このコラムでも取り上げてきたが、日本の文化以上に、地域の文化も大切にすることは言うまでもないことである。
 たとえば、芸どころ名古屋は都々逸の発祥の地でもある。にもかかわらず、名古屋人の中で都々逸の一節も歌える人が何人いるのか?そこで、次期市長選の際、候補者は都々逸を必ず披露するとか、名古屋市役所の職員採用試験では、都々逸を詠うことを必須とするとか。。。ま、これは極論ですかな。

 結論としては、愛国心とは、郷土愛の延長線上にあり、郷土愛とは、そこに棲まう人々の全てをまるまる包括して愛おしく思い、慈しむ心であると考えれば、自ずとなんとなく判ってくる気がする。難しいことは、一つもないのである。

 以上、いつものコラムとは趣を変えて、愛国心について考えてみました。ちなみに、私は、藤原正彦の「国家の品格」には、ほとんど全面的に同意いたします。

(ねむり姫 47歳)