我々はどこから来たか 我々とは何か 我々はどこへ行くのか

平成21年7月〜12月ネット上にて公表

 名古屋ボストン美術館の奥まった展示室の、薄暗い一角にそれはありました。
 本家のボストン美術館からほとんど外に出たことはないというゴーギャンの噂の傑作。

 ゴーギャンの作品というと、あのタヒチの原色の強烈な色使いといったイメージがありますが、あまりに部屋が薄暗くてよくわかりません。(目が悪いせいかも)

 仕方なしに、横に掲げてある詳細な解説を読んでいる内にようやく目が慣れてきて、もう一度作品に向かい合ってみます。近づいてみたり、遠ざかって眺めてみたり…。作品が語りかけてくる瞬間を緊張して待ちます。そういえば、「NHK世界遺産100」のタイトルバックにCGとしてこの作品が使われたっけね。ず〜と眺めている内に、いつしか久石譲のテーマ曲が脳裏を流れます。

 この作品が描かれたとき、ゴーギャンは失意のどん底にあったとか。
 自分は何のために生まれてきたのか。いったい自分は何のために生きてきたのか、こんな絶望を最後の最後に味わう人生はいったい何だったのか。そして、これからどうしろというのか。
 そんなふうに考えたから、今までの自分の作品を振り返りながら、これまで描いてきたものをもう一度なぞるような、このような作品をつくりあげたのでしょうか。

 何のために生きるのか?これは、人間の最大の命題かもしれません。こんなことで思い悩む生物は他にはいないでしょう。

 ところで最近、重松清の「流星ワゴン」という小説を読みました。妻に裏切られ、子供は家庭内暴力、そして、自分はリストラ。サイテーの人生となってしまった主人公が、死んじゃおうかな、と思った時、目の前に不思議なワゴン車があらわれます。
 主人公はその車に乗って、今までの人生を遡り、サイテーの人生の原因となってしまった折々のターニングポイントに戻ります。そして、何とか人生を変えようとしてジタバタするのですが、結局のところ、何一つとして変えることができず、ワゴン車に出会った時点に再び帰ってきます。
 サイテーの展開、サイテーの結末。それでも、主人公は、ワゴン車に出会った時点で、死ぬことではなく、このサイテーの人生を、そのまま歩み続けることを決意するというお話です。

 こうしてあらすじだけ書くと、何で?どうして?それが面白い小説か?と思われてしまいますが、そこが重松清の力量というか、なんというか、とてもすがすがしい気持ちになる小説でした。家族小説の新境地とも呼ばれ、作者のあとがきには、「父親」となっていなければ、書けなかった小説とありました。

 一方、ゴーギャンは、この作品を描いてすぐ自殺を図ります。そのときは、未遂に終わってしまいますが、結局、作品が完成した5年後に没したといいます。

 たとえ、サイテーの人生で、サイテーの結末を迎えようとも、最後の最後まで生きてぬくことは、人間も生物の「はしくれ」である以上、最も大切なのことでしょう。
 ところが、日本の自殺者数は、11年連続で3万人を超えているとか。これは、新型インフルエンザや交通事故なんぞ問題にならない数字です。

 がんばりましょうよ。悲しくも雄々しい、そして愛しいイキモノである「ご同輩諸君」!
 玉置浩二も「田園」で、「生きていくんだ。それでいいんだ。」と歌っているじゃありませんか! 

 ♪苦しいこ〜ともあるだろさ、悲しいこ〜ともあるだろさ、だけど僕らはくじけない〜。泣くのはいやだ。笑っちゃお、進め〜〜♪

(ねむり姫 50歳)