平成15年に読んだ本の中から…

平成16年1月〜6月ネット上にて公表

 平成15年4月に転勤になったので、当然通勤経路も変わりました。
 電車に乗っている時間は短いのですが、座ることが出来ないので、居眠りもせず、つり革にぶら下がって本を読んでいます。このため、平成15年は、文庫本や新書本を電車の中でしか読まない私にとって、久々に沢山の本を読むことができた年となりました。
 もっとも、これは、新潮文庫のYonda?CLUBが9月に新装開店したこととも、大いに関連がありますが。。。。
 と、いうわけで、今回は新潮文庫に収められた本の中から話を始めます。

 
昼は、東京電力のエリートOL。夜は4人の客を取ることを自らのノルマとして、円山町の街角に立っていた娼婦。そんな女性が安アパートの一室で殺された。犯人として逮捕されたのはネパール人。一審の無罪判決の後の高裁でまさかの逆転有罪。もはや瞠目するほかない渾身のルポルタージュ。
 こんな内容説明に触発されて読み出したのが、佐野眞一の「東電OL殺人事件」、そしてその続編とも言うべき「東電OL殺人事件症候群」である。
 三流スポーツ誌の三面記事的興味本位で手に取ったことは否定できないが、そんな自分が恥ずかしくなるような、これはとんでもない作品である。先頃最高裁で無期懲役の判決が出たこともあり、事件そのものも再び話題になりそうな気配であるし、インターネットで、ひとたび「東電OL殺人事件」と検索すれば、数多くの関連サイトを引っ張ってくることが出来るという、まだまだ風化していない、いや風化させてはならない事件を扱ったルポであった。
 
 作者は、一作目で、事件の現場は勿論、容疑者の母国であるネパールにも赴き、丹念に取材を重ねている。その製作意図は作者が書いているとおり、「殺された渡辺泰子のまなざしに映ったいまという時代の底に広がる果てしなき闇」を描くことであった。
 そして、次第に明らかになる摩訶不思議な現在という時代。
 殺された女性は、エコノミストとしても将来有望であったという。そして、売春をしていたことを会社も家族も知っていたという驚愕の事実。また、犯人とされる不法就労のネパール人は、一審で無罪判決の後、本国へ強制送還されるはずが、なぜか違法とも言うべき再拘留となってしまう。これに対して、ネパール政府は、抗議もせず沈黙する。ネパールにとって、日本はODA援助の最大貢献国だという事実が明かされる。さらに、再拘留の決定に関わった判事が買春で捕まり、20年ぶりの弾劾裁判が行われる。。。
 この事件の不思議な連鎖も興味深い。円山町のホテル街とダムの関係。殺されたOLと買春判事の境遇。等々。
 加えて、本の中の裁判記録を読む限り、どう解釈しても、有罪と言えるような証拠はなく、強引な判決のように思える。このOLの担当していた仕事が、政治工作資金の調達だったという、まことしやかなウワサもあり、始めから、組織的な犯罪だったという疑いさえ囁かれる。ゴビンダは、その犠牲としてでっち上げられた犯人というわけである。

 一作目の発表後、殺されたOLに共感を抱く、男女同権とは名ばかりの社会の中で生きる、数多くの女性達から「堕ちてみたい」という願望が吐露される等、ものすごい反響があり、これを踏まえて、二作目は、より深く広範囲に事件の背景と深みを探っていく内容となっている。

 売春に走ったエリートOLと、買春に走ったエリート判事。その売春も銭儲けではなく、1日に4人の客を自らのノルマとし、わずか2千円で、駐車場でことをすませたこともあったという。買春にしても、妻の妊娠を知りながら、伝言サービスで知り合った女子中学生を携帯で呼び出して重ねた行為だったという。あまた風俗産業があるなか、これはやはり普通ではない。どちらも、歪な社会の中の歪な上昇志向のストレスに耐えきれなかったのか?あるいは、不本意な組織の歯車となるのに嫌気がさしたのか?
 そしてまた、この歪な社会には、常人には理解しがたい司法と検察との闇の繋がりがあるらしい。。。

 考えてみると、本当に生きにくい世界に我々はいるのだとあらためて感じてしまう。しかし、なぜ、世の中は、そのような方向ばかりをこぞって目指すのであろうか。他に生きる道はいくらでもあるような気がする。万人がすべて、サラリーマンに向くわけがないではないか。かく言う私も、まったく向かないと思っている。
 学校を出て、サラリーマンになるのが普通の生き方であり、そのレールの上に乗るのが当然とされれば、今を生きる若者達にとって、夢も希望もなくなるのは至極当たり前のことである。この点に関しては、正高信男の「ケータイを持ったサル」(中公新書)の分析が面白かった。流石に「埴輪ルック」の話は出てこなかったが、「ベタ靴」も「ケータイ」も「車中化粧」も公の場に出たくないという思いの裏返しだと正高は、言う。私は、楽屋と舞台の同化だとずっと思ってきた。

 いずれにせよ、このコラムにも何度も書いているように、いつまでも20世紀型の生き方をせず、新しい21世紀型の生き方を模索していく必要がある。なにも日本が世界の一流国であり続ける必要などなく、個人個人も今までの概念にとらわれず、等身大の生き方をしていくべきであろう。一人一人が、「世界で一つだけの花」であるのだし、その命も長くてわずか100年である。走る方向を誤ってはいけないと思う。もっとも、ここで、いくら主張しても、厚い「バカの壁」は破れそうもなく、ならば、せめて自分だけでもと、考えている今日この頃である。

 「バカの壁」といえば、平成15年のベストセラーであるが、これも興味深く読ませて頂いた。特に、個性というものは本来、体にあるものであって、意識の中に個性を求めるのは間違いである、という主張は、結構目から鱗の感があった。
 この養老先生も、東大教授を定年よりかなり前に辞めた人である。実は二度程、直に講演を聴いたことがあるが、東大教授時代の講演よりも、辞めてフリーになってからの講演の方が格段に面白かった。
 この先生の教養の幅は尋常ではなく、趣味の昆虫採集はもとより、落語を始めとする日本の古典芸能にも造詣が深い。著書も、ずっと以前に刊行された名著「唯脳論」があるが、正直言って私には難解でよくわからなかった。東大を辞めてから久しいが、最近完全にブレークしてしまった感があり、これからも目が離せない人である。

 以上、平成15年に読んだ本の中からとりとめもなく思うところを書いてみました。勿論、小説も沢山読みましたが、本には、その時代に読まないと意味がない本もあると思います。もし、上記の中にお読みになっていない本がありましたら、書店で手に取ってみてくださいませ。

(ねむり姫 44歳)