14年に読んだ本と観た映画から・・・

平成15年1月〜6月ネット上にて公表

 

平成14年は後半、公私共々色々な行事がつながって、落ち着いて思考することが出来ませんでした。
 そのため、今回はちょっと手抜きをして、一年間、時間がないと言いつつも、読んだ本と観た映画の中から抜粋し、そのコメントを書いて、お茶を濁そうと思います。

 まずは、本から。。。

※「日本の森はなぜ危機なのか」  平凡社新書 2002 田中淳夫著


 宮前の森林倶楽部のメンバーの方から、この本を読んで感想を聞かせて欲しいと、メールで依頼がありました。これをうけて、早々本屋にて購入し、課題図書?にでも取り組む感じで、じっくりと読ませて頂きました。
 なかなか刺激的な示唆に富む内容でしたが、まったくの予備知識がない人が読むと、誤解するかもしれないなという点もあり、そんなことをまとめて感想文を作成して、メンバーの方には返事をしました。

 ところで、本の末尾の著者紹介によれば、田中氏は私とまったくの同年齢の方で、静岡大学の林学科を卒業後、新聞社等を経て、現在はフリーの森林ジャーナリストであるとあり、彼宛のメールアドレスも記載されていました。

 そこで、先に書いた感想文を「よそ行き?」になるよう、内容に手を加え、田中氏に送ってみました。すると、すぐに返事があり、以来、メールを介して2度ほど、お話をいたしました。
 1人の読者に対しても、長々とメールを書いてくれる田中氏に、本の内容以上に感激してしまったところです。実は、今一つ宿題を頂いており、それについて、考えをまとめなければならないのですが、忙しさにかまけて手をつけていません。この場を借りてお詫びしておきます。


※「呪術がつくった国 日本」 光文社 上田 篤著 2002

 書店で、「ハリー・ポッター、阿倍清明はなぜ流行る、日本文明はおまじないでできている」との帯の宣伝文句につられて、衝動買いをした本です。

 日本は、言霊の国とか呪術の国とかよく言われますが、この本は、タイトルとは裏腹に、イギリスとの対比を中心にした比較文化論の体をなしています。なかなか面白かったですよ。目新しい話題も満載でした。

 「なぜ、天皇陛下は着物をお召しにならないか?」ご存じですか?
 私は単なる明治維新以来の西洋かぶれと思っていました。答えは、この本を読めばわかります。興味のある方は一読してみてはいかがしょう?

 以下は映画です。

※「白い船」 脚本・監督 錦織良成  2002白い船製作委員会

 
島根県にある小さな漁村の小さな小学校と、その沖を通るフェリーの船長さんとの心の交流を描いた実話に基づいた作品です。

 思いは届き、夢は叶うもの、という、もはや現代では口にするのも恥ずかしいようなコンセプトを貫いています。しかもその夢たるや、文通により交流できたフェリーに乗ってみたいという、すぐにでも実現できそうな子供達の夢なのです。(物語の舞台は現代です)

 しかし、児童は勿論、先生も含めて学校全体で交流を図ってきたフェリーに、個人的に乗り込んでも意味はありません。

 映画は、過疎に悩む漁村の人々や、行き詰まりを感じている新人教師、昔ながらの熱心な教職員達など、様々な人々が、一つの夢に結集していく様子を描きます。そして、まさに村をあげての「田舎の子供達にも夢を与えたい。」という思いが、紆余曲折の上、ついに教育委員会を動かし、「総合的な学習」という、正式な学校行事として実現するわけです。

 子供達が乗り込んだフェリーが、その漁村の沖を通過するとき、地元の海辺では村人総出で手を振り、すべての漁船は大漁旗をはためかせ伴走します。

 ヒロインの新人教師が、フェリーの上から手を振りながらつぶやきます、「ただ、船から手を振るだけなのに、どうして涙が出るんだろう」。それを観ながら、観客である私も涙をぬぐいました。

 なにもデカイ夢ばかり思い描くのが能ではありません。やはり、人と人とのふれあいの中に本当の幸せはあるのかもしれませんね。ほら、青い鳥はすぐそこに。。。

 そうそう、音楽を角松敏生が担当しており、こちらもなかなかなもんですよ。

※センス・オブ・ワンダー 小泉修吉監督作品 2001 レイチェル・カーソン原作
※阿弥陀堂だより 小泉堯史監督作品 2002 後援長野市 撮影協力長野県飯山市

 「センス・オブ・ワンダー」は、あの「沈黙の春」のカーソンのエッセイを長編記録映画とした107分にもおよぶ大作です。2001年に作られ、自主上映の形で全国を回っているとか。私は、「おかざき自然体験の森オープニング記念上映会」で観る機会を得ました。

 この映画は、あの「ガイア地球交響曲」のような派手さもなく、「生き物地球紀行」のような学術的?コメントもなく、時には音楽も排し、原作の翻訳者である上遠恵子女史が、原作を朗読するというスタイルをとっています。

 エッセイは、カーソンが姪の子供と一緒に自然の中に出かけ、その神秘さと大切さを詩情豊かに綴ったもので、「知る」ことよりも「感じる」ことの大切さを訴えています。映画も実際に米国のメイン州をロケし、その四季の美しさは、とてつもないものです。

 ところが、この何度もリピーターがいるというこの映画に、私自身は、あまり心を動かされませんでした。こんなに美しい自然なのに、なぜなんだろう?と、ず〜と考えていましたが、「阿弥陀堂だより」を観て、その疑問が解けました。

 というのは、「センス・オブ・ワンダー」の自然には、人の営みが一切、描かれていなかったのです。ただ、そこにある「自然」という感じかな。これに対し、「阿弥陀堂だより」も同じように、美しい自然を描いていますが、その自然は、常に人とともにある自然なのです。

 田植え、小川のせせらぎ、かじかの鳴き声、畑の草取り、お盆の迎え火、精霊流し、秋の稲刈り、豊年祭り、冬の漬け物づくりに、火祭り。。。これなんですね。日本の自然は。

 「阿弥陀堂だより」というのは、村の広報のコラムタイトルなのですが、映画の中で次のようなコラムが出てきます。

 雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です。春、夏、秋、冬。はっきりしていた山と里の境が少しずつきえてゆき、一年がめぐります。人の一生と同じなのだとこの歳にしてしみじみと感じます。

 このような季節の移ろいを人間の一生になぞらえ、輪廻転生を自然の中に観るというのは、自然と同化しながら生き、すべてのものに「おかげさまで。。。」と感謝しながら暮らしてきた、多神教の日本人ならでは、なのかもしれません。

 「センス・オブ・ワンダー」よりも「阿弥陀堂だより」に、感動した私にもそんなDNAが宿っているのでしょうか。


※「なごり雪」 大林宣彦監督作品 2002  製作協力 大分県、臼杵市

 名曲「なごり雪」は、イルカが歌って大ヒットしましたが、私のようなフォーク世代にとっては、ニューミュージック「なごり雪」ではなく、やはり「かぐや姫」の伊勢正三の「なごり雪」の方が、感慨深いものがあります。

 この映画は、名曲「なごり雪」をモチーフに作られたもので、歌詞がそのまま、映画の中で主人公のセリフとしても語られます。

 今、なぜ「なごり雪」なのか?

 映画は五十歳を迎えようとしている主人公の男が、二十八年ぶりに古里へ帰るところから始まります。そして、未だ故郷に残る、美しい風景や懐かしい風景を描きながら、この二十八年間、主人公が、そして、日本が失ってしまったものを、我々に気づかせてくれます。

 五十歳へのエレジーと副題がつけられ、ちょうど五十歳となる伊勢正三が、映画の冒頭、「なごり雪」を歌うシーンが挿入されています。一生懸命に生きてきた二十八年間、その中で得てきたものは何だったのか、そして失ってしまったのはなんだったのか、では、今、何をなすべきなのか。映画はそんなことを静かに語りかけているような気がしました。

 ところで、この映画は、大林監督が、2001年に大分県で開催された全国植樹祭の総合演出を手がけ、その時の人々とのふれあいが、製作のきっかけになったとのことです。また、臼杵市は、高度経済成長期にセメント工場の企業誘致を市民運動で阻止し、古里の緑を守り抜いたという人々が暮らす町なのだそうです。

 大林監督が、あの尾道三部作は、「町おこし」ではなく、「町まもり」として作ったと言えば、若き頃、市民運動の闘志でもあった臼杵の市長さんは、「待ち作り」「待ち残し」として、古いものを簡単に壊したりせず、活かし方が見つかるまで維持しつづけるんです、と答えたとか。つまり、使い道が見つかるまで、気長に「待ち続ける」余裕が大切であるというわけです。

 2001年の大分県の全国植樹祭がどのような祭典だったか、そして、それが県土の緑化に関してどのような効果があったか、私が知るよしもありませんが、大林監督がこの珠玉のような作品を撮ったことで、十分すぎるくらいの価値、後世への宝物を残しました。まさに、一過性のイベントとはならなかったのです。

 わが愛知県も2003年以降、ビックイベント、ビックプロジェクトが目白押しです。果たして、後世の宝物になるようなものが生まれるのでしょうか。。。。。大いに不安であります。

 そうそう、映画の中で、山本有三の「心に太陽を持て」という小説が出てきます。大林監督の「思い」を伝える重要な小道具として使われているのですが、私は読んだことがありませんでした。こういうのがてでくると、自分の無教養に腹が立つのよね。

(ねむり姫 43歳)