学生時代からやりたいことばかりで、アルバイトをする暇がありませんでした。このため、もっぱら、新聞、雑誌の投稿や、テレビ、ラジオのモニターをして、小遣い銭を稼いでました。
しかし、投稿した文章は、活字になる前に編集者の校正が入ります。様々な文献を引っ張り、何日も悩んだ末絞り出したフレーズが、あっさり、ありきたりの表現に書き換えられることも、しばしばありました。
そんなときは、「あ〜、この編集者は、こういう表現方法を知らないんだな。」と毒づいたものです。
そもそも、今までのメディアは、採用されなければ、人の目に付きません。ま、自費出版という手もありますが…。
しかし、インターネットの時代になり、ちっぽけな個人から、世界に向かって、簡単に、思いを発信できる時代になりました。これは、とんでもなく、すごいことだと思います。
ご感想などお待ちしております。
魂はどこに行くのでしょうか?
お袋さんが亡くなって寂しくなりますね。と様々な方から声をかけられます。でも、私自身は亡くなったという実感がないというのが、正直言うと本当のところでしょうか。これはオヤジさんの時も同じでした。
オヤジさんはS字結腸癌で平成2年に病院で亡くなりました。何ヶ月入院していたかは記録も記憶もないのでわかりませんが、家にいなかった期間が長かったので今でも病院に行くと会えるような気がしています。
お袋さんの場合は、特養から誤嚥性肺炎で病院に担ぎ込まれてから15日後に亡くなりました。特養にいる間は毎日面会に行ってましたが、当時入院していた病院はコロナの関係から面会禁止でありました。亡くなる3日前に医師に直接病状を聞いた際、一度だけ面会することが出来ただけだったので、やはり今でも入院しているような気がしていますし、入所していた特養に行けば、まだそこにいるような気がしています。
オヤジさんが入院していた病院は、当時、妹が看護師、その旦那が放射線科の医師として勤務していた病院でした。お袋さんは、オヤジがいよいよとなった頃から、オヤジのベッドの横に簡易ベッドを置いてもらって泊まり込んでおりました。あの頃は、そんなことができたんですね。あの日は確か夕方に妹から「そろそろかも。」と電話をもらって車を走らせた覚えがあります。
私が病室に着くと、オヤジさんは家族に囲まれて、荒い息を吐き、とても苦しそうでした。医師から「しゃべれなくても耳は聞こえてますから声をかけてください。」と言われ、お袋さんや妹は声をかけていましたが、私は布団から飛び出ていたオヤジさんの足の指をさわっていました。当時は癌の告知をしないのも普通だったので、オヤジ自身がこの状況を一番納得してないだろうなと思いながら、そう言えば、オヤジと二人っきりで飲みに行ったのは、一度しかなかったな、なんて事を考えていました。苦しそうな息が突然止まったのは、そんな状態がどれくらい続いた後だったかは記憶がありません。人が亡くなるのも大変なことなんだなと、その時思ったものです。
お袋さんもその体験があったからでしょう。元気な頃から、私には延命措置はしないでねと常々言っておりました。そんなこともあって、誤嚥性肺炎で入院した病院の医師から、誤嚥性肺炎はよくなりつつあるけど、高齢のため何が起こるかわからないと言われたとき、お袋さんの希望は伝えてありました。
そして、救急車で担ぎ込まれて以来13日ぶりに面会が許されて会ってみると、お袋さんはずいぶん痩せてしまって、やつれた感じでした。しゃべってはくれませんでしたけど、微笑んだり手を握ったりしてくれました。帰り際に手を振ってわかれたとき、なぜかホッとしたような、とてもとても安心したような顔つきをしていたのが印象的でした。今から思えば、左大腿骨骨折したころから、覚悟というか、もうこれでいいやと心に決めていたのかもしれません。リハビリもあまり熱心にやってませんでしたしね。
私が病院に駆けつけたときは、すでに亡くなってはいましたが、とても穏やかな顔をして眠っているようでした。葬儀屋さんが迎えに来るまで病室で二人きりで待っていましたが、思い出されるのはHPの既公表コーナーでも紹介してある、お袋さん喜寿のお祝いで行った平成19年の淡路島ドライブ旅行でした。オヤジ最後の現場を訪ねた旅でした。不思議ですよね。子供の頃何度も叱られたことよりも、たった一度二人で旅行したことを思い出すとはね。お袋さんも息を引き取る前、そんなことを思い出していたのかなぁ。
後に行きつけの、いやいや、かかり付けの診療所に顛末を報告に行ったとき、女医さんからは、生き続けるって事はとても大変なことみたいですよ。高齢で自然に亡くなると、皆さんそういう顔をされるようですと言われました。
今、仏壇横の壁には、オヤジさんとお袋さんの遺影がならんでいます。オヤジさんの写真は妹の結婚式から転用した白黒写真です。お袋さんの写真は、遺影に使うことを前提に、米寿のときに写真館で撮影したものです。あの世で、どんな話をしているのでしょうかねぇ。長いことご苦労さんとでも言っているのかな。戦争や災害で突然命を断たれる人もいるなか、ベッドの上で亡くなったということは幸せだったのかもしれません。とは言っても、オヤジは大正13年、お袋さんは昭和5年生まれ。どちらも人生で一番大切な青春時代を戦争に奪われた世代です。自分の人生をどう振り返っていたのでしょうか。また、オヤジさんとお袋さんの魂はどこに行ったのでしょうか。考えても答えがでるような問いではありません。
さて私はどんな最期となるのでしょうか。残念ながら子孫を残すことはできませんでしたが、それは妹が三人の子供を産み、立派に育ててくれたことで許してもらいましょう。その代わり、オヤジさんとお袋さんが、苦労に苦労を重ねて造ったこの家を、生きている限り守っていくことで勘弁してもらうしかありません。
それにしても、学生時代は、先生や仲間に恵まれ、研究室でもサークルでも、十分満喫できましたが、就職してからは残業続きだったし、土日にもパソコン叩いて資料作成をしたり、現場まで自家用車で出向くことも度々でありました。そして退職してからは、家と庭とお袋さんの維持管理で、独身を謳歌してきたという意識はありません。庭には池があり、勿論オーバーフローする構造にはなっていますが、枯れ葉や泥で機能しないこともあり、大雨が降ると心配です。そんなことから長期の旅行も無理でしょう。まぁ、そういう運命なんでしょうね。藤村操ではありませんが、「大いなる悲観は大いなる楽観に値する」ってやつでしょう。
ただ、永井荷風のように糞尿にまみれて、我が家で孤独に最期をむかえるってワケにもいかないでしょうね。それが良いような気がしないでもありませんけどね。
「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」孔子さんの言葉通り、死ぬことを考えるより、今生きていくことの方が重要なのですな。